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◆愚にもつかない記者会見
 この第二部「金日成主席革命活動史」からみれば、朝鮮戦争(五〇年六月二十五日一五三年七月二十七日)も「祖国解放戦争の勝利」であり、百万を越える中国人民義勇軍が参戦し、中途からは米軍主力の国連軍と中国義勇軍を主役とする国際戦争となった史実は一行も出てこない。
 北半部革命基地論に立って、南半部の武力が解放統一を目指した朝鮮戦争の発端についてはすでに開戦時副参謀長、作戦局長だった李相朝、兪成哲両元中将の有力証言がある。追いかけて四月三日、韓国『聯合通信』がモスクワから伝えたところによると、旧ソ連軍総政治本部副本部長、国防軍事史研究所長を歴任したドミトリー・ポルゴノフ大将は、五〇年二月四日、九日付でスターリンと金日成の間で交わされた暗号電文解読の結果、朝鮮戦争は間違いなく金日成人民軍の南進で始まった戦争であったと同通信モスクワ特派員に語っている。
 『主席、金日成』第一部「金日成主席接見記集成」に転載されている『朝日新聞』後藤基夫編集局長の金日成首相(当時)との特別会見(七一年九月二十七日)と『読売新聞』高木健夫編集顧問の特別会見(七二年一月十四日)については、続く四月二十七日の『朝日新聞』『共同通信』『NHK』の共同記者会見と併せ、「新聞はなぜ北朝鮮を見誤ったのか」のタイトルのもとにとりあげたことがある(本誌、一九八八年一〇月号)。その際、「日本有力紙の“検証なき”北朝鮮報のパターン、原型を作ったのは『朝日新聞』後藤編集局長の特別会見だ」と指摘した。
 新しくはこの一年の間に『毎日新聞』訪朝取材団の単独会見(九一年四月二十日)、『共同通信』酒井新二社長会見(同年六月二日)、『朝日新聞』訪朝取材団の特別会見(九二年四月二日)がある。前二者はソ連ゴルバチョフ大統領の訪日・訪韓のタイミングと、北朝鮮外務省の南北同時国連加盟方針への転換声明(五月二十八日)直後の特別会見であったにもかかわらず“検証なき”北朝鮮報道そのままであった。両特別会見を通じて読者が知ったニュースは、金日成主席が日本映画「寅さん」の大ファンで「男はつらいよ」シリーズはすでに四十本見ており、「新作が待ち遠しい」と語った(共同通信)という愚にもつかないもので、まさに“泰山鳴動、トラ一匹”のだじゃれともつかないお話だった。
 世界中の映画という映画で見ていないものはない、といわれる映画狂金正日書記の影響とみられるが、そんな外国ものの娯楽映画を見ることができるのはひと握りの特権層であり、北朝鮮大衆に無縁なものであることを、共同通信社長は確認取材していないのである。
 『朝日新聞』特別会見も金日成主席とのインタビュー内容に限っていえば、これまでの金日成主席会見と共通して“お仕着せ”会見の域を一歩も出るものでなかった。「終始自信に満ち、冗舌で健在ぶりを誇示したいかのような」(小菅記者)金日成主席独演の口からついて出た「私にとって還暦は九十歳」のくだりを通し、父子権力世襲体制とはいいながら、国家主席と労働党総書記ポストの金正日書記への明け渡しはありえないことが明らかとなったていどである。
 特別会見のポイントは核査察協定の批准をへて、いつ査察を受け入れるかという時期の問題であったが、「そういうところまで計算してみたことはない」とする計算ずくめの返事で、はぐらかされたままだった。
 もっとも、『毎日』『共同』両特別会見と違って『朝日新聞』は取材団記者たちがそれぞれ署名入り記事を通じ金日成主席発言を解明してみせたところに、かろうじて旧来のお仕着せ会見を一歩脱け出そうとする工夫がみられた。金日成主席はじめ北朝鮮指導部が査察受け入れの時期の明言を避けているのは「核問題をあくまで米国や韓国との間の外交カードとして使う姿勢」であり、「党・政府の指導者の間でも、経済担当者と独自の社会主義路線を守りたいイデオロギー担当者の間では、今後の対応をめぐって微妙な差が感じられた」とする指摘である。
 しかしこのところ一連の北朝鮮報道を通じ、読者に“知らせる”報道に徹しているのは『産経新聞』である。同紙のソウルからの報道はすでに過去六回にわたった南北首相会談の口を通して、開放政策派とイデオロギー中心の守旧派の間の微妙な対立があり、その中で「金日成主席はあくまで守旧派の立場にあり、柔軟派の間では、間接的に金主席に対する不満も聞かれる」と踏み込んで伝えている。
 また同紙は後継者金正日書記のいぜん謎に包まれた人間像についても、米誌『ニューズウイーク』の「ごう慢で孤立した男。冷たい性格で、基本的に人間嫌い。人の目を真っすぐ見ることがない。おべっか者に囲まれて、高級コニャック『ヘネシー』をすすり、ダンヒルのたばこを吸って美女をはべらす生活ぶり」と、社会主義国の指導者らしくない人間の片鱗を伝え、読者の理解に供している。
 さらに四月十四日の同紙は金日成主席八十歳の誕生日を前にして、金日成政権誕生の内幕を知る元ソ連軍少将ニコライ・レーベジェフ(九〇歳)の証言を報道した。一九四五年八月平壌に進駐し、三八度線以北の日本軍を無条件降伏させたソ連軍のチスチャコフ、第二五軍司令官が「注目すべき政治工作者」と呼んだ人物である。
 それによれば、(1)金日成主席を北朝鮮指導者に選んだのは、レーベジェフ自身を含む平壌の現地ソ連軍最高司令部の独自決定だった、(2)金日成主席は“抗日闘争の英雄”で伝説的存在の金日成将軍とは全く別人で、本名「キム・ソンジュ」だった、(3)北朝鮮の公式の歴史と違って、金日成主席は一九四一年から四五年までソ連軍大尉としてハバロフスク周辺におり、金正日書記はそこで生まれた――など、造られた“金日成神話”を根底から覆す内容にわたっていた。
 金日成政権生みの親の手によって、こともあろうに、『主席、金日成』の第二部「金日成主席革命活動史」の核心部分がことごとく否定されるに至ろうとしているのである。
 
 
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