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◆二 九・一一テロ事件と小泉訪朝
 昨年九月の日朝首脳会談を前に、日本政府を脅かしていたのは、言うまでもなく後者の悪夢である。北朝鮮が大量破壊兵器の放棄を渋っている間に、九・一一テロ事件が発生し、アフガニスタンでタリバンの掃討が進展した。また、米国によるイラク攻撃が現実味をもって議論され始めた。もしイラクが攻撃されれば、その次の目標は北朝鮮であるかもしれない。しかし、北朝鮮が「第二のイラク」になることは、日本にとって、自らの安全保障上の危機を意味していた。一九九四年の危機当時とは異なって、北朝鮮はすでに日本を標的として想定する一〇〇基以上のノドン・ミサイルを配備している。したがって、日本は湾岸戦争当時のイスラエルと同じような立場に置かれかねないのである。(※1)
 しかし、北朝鮮にとっても、九・一一テロ事件は予想を超える事態であった。明らかに、米国の軍事力に対する恐怖が北朝鮮の対日接近を促し、金正日総書記に小泉首相を平壌に招待させたのである。言い換えれば、北朝鮮の体制保全を図るために、金正日はブッシュ大統領の盟友である小泉首相の協力を必要とした。かつて韓国の盧泰愚大統領が展開した「北方外交」との対比で言えば、金正日が推進したのは、「東京を経由してワシントンに到達する」という「南方外交」であったと言ってよい。そのための「高価な代償」として、日本の植民地支配の過去が清算されていないにもかかわらず、金正日は日本人拉致という国家的な犯罪を認定して、謝罪したのである。
 しかも、金正日総書記は、それを巧妙にやってのけた。拉致被害者の「八人死亡」を最後まで秘匿し、訪朝前に開催された外務省局長会談で共同宣言の案文を詰めたうえで、平壌に到着した日本代表団に最高機密を明らかにし、最大の懸案とも言える拉致問題を一挙に処理しようとしたのである。これが今回の首脳外交における最大の外交的演出(トリック)であった。もちろん、もし小泉首相が首脳会談の席を蹴って帰国すれば、そのような交渉戦術は破綻せざるをえなかった。しかし、そうなれば、日本は北朝鮮との対決の最前線に立たざるをえなくなっていただろう。
 米国に対する恐怖以外に、金正日の対日接近を促すものがあったとすれば、それは北朝鮮の経済的な破綻である。社会主義諸国との経済関係(バーター貿易と友好価格)の喪失、エネルギーと物資の欠乏、工場の稼働率低下と計画経済の破綻、連続的な自然災害と食糧危機など、その実態はきわめて深刻である。七月以後に実施された「経済改革」(管理改善)措置も、その実態は農民市場と呼ばれる闇市場に対する統制力の回復のために需要と供給の原理を導入し、商品の公定価格を闇市場の商品価格の水準まで引き上げたにすぎない。しかし、もし改革後も物資の供給が不足すれば、インフレの昂進が経済全体を破綻させるかもしれない。日本からの資本、技術、物資の導入が不可欠になっていたのである。
 したがって、全般的にみるならば、日朝首脳会談は日本側に有利な条件の下で進展した。日朝平壌宣言を通じて、日本は植民地支配について謝罪し、双方は国交正常化の早期実現のためにあらゆる努力を傾注することを約束した。北朝鮮側にとって最も重要な経済協力については、無償資金協力、長期借款供与、国際機関を通じた人道的支援、国際協力銀行を通じた融資、信用供与などが列挙された。さらに、北朝鮮側は「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」(拉致と工作船浸透)が再び生じないように適切な措置をとることを約束し、「朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際合意を遵守する」ことを確認した。また、北朝鮮はミサイル発射のモラトリアムを延長する意向を表明し、双方は安全保障問題について協議することに合意した。(※2)

(※1) 北朝鮮の経済状況は、そのような方向に進行している。そのため、本年三月の最高人民会議では「人民生活公債」の発行についての法令が審議され、採択された。解放と戦争の混乱期以来、約半世紀ぶりの措置である。三月三〇日の『労働新聞』によれば、公債は「自発性についての原則と公民としての義務を結合する方向で」発行され、「国防建設と人民生活を財政的に保障する」ために利用される(『労働新聞』二〇〇三年三月三〇日)。
(※2) 日朝平壌宣言、二〇〇二年九月一七日。
 
 
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