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◆日本政府がまずすべきこと
 この事件に対する北朝鮮当局の評価は、「大成功であった」というものである(佐藤勝巳氏が北朝鮮上層部に近い筋から直接確認している)。「民族の敵」である朴正煕大統領に銃を撃ちかけ、夫人を殺しただけでなく、日韓関係を極度に悪化させて韓国政府の立場を弱めることに成功したのであるから当然といえば当然だ(ちなみに、日本のマスコミと世論が、テロを命じた北朝鮮を責めず被害者の韓国を疑う方向に向った背景には、筆者が拙著『日韓誤解の深淵』〔亜紀書房〕でその不純な政治的役割を暴露した、岩波書店発行の『世界』などを舞台とした北朝鮮とその同調者たちによる反韓国キャンペーンがあったことはいうまでもない)。
 北朝鮮の立場からすれば、文世光事件で反省すべき点はただ一つ、文世光が現場で自殺を図らず逮捕され、自白をしたことだったはずだ。もしも彼があの時毒薬でも飲んで自殺していれば、残るは日本政府が発行した日本人パスポート一通と、日本警察の拳銃一丁、そして男の死体一体だけである。日本人過激派の犯行と疑われた可能性も十分あろう。
 文世光事件が起こされた七四年の二月には「党の唯一思想体系確立の十大原則」が採択されている。そこには「自分のみならずすべての家族と後世の者も偉大な首領さま(金日成)をおし頂き首領さまに忠誠をつくし、党中央(金正日)の唯一的指導に最後まで忠実であるようにしなければならない」などという極限にまでエスカレートした金日成・金正日神格化の文章が続いている。
 文世光事件を総括した北朝鮮は、その後の対南工作活動の柱として日本人と「日本人」を使ったテロ活動を採用したと推定される。実際に、一九八三年初頭、平壌に近い筋は次のような情報を伝えた。「ソウル五輪をつぶす第一段階として、その年の十月ソウルで開催されるIPU(列国議会同盟)総会をつぶす。そのために日本人を使いたい。日本人を使えば、要人テロなどに失敗しても北朝鮮が表に出ることはない。しかし、日韓関係には確実に亀裂を入れることができる。テロに成功すれば、韓国が混乱に陥る、ということで日本人に接近している。その対象の一つに、日本赤軍があった」(佐藤勝巳「北朝鮮工作員柴田泰弘の役割」『文藝春秋』八八年七月号)。
 また、韓国大統領選挙期間中の八七年十一月に日本赤軍最高幹部、丸岡修がにせパスポートを持って日本に入国し逮捕された事件があった。これも、(1)丸岡は同年八月二十四日から九月三日まで北京にいて、北朝鮮の対南工作の元締めといわれる人物[よど号ハイジャック犯リーダーの田宮高麿]に接触したという報道(『フラッシュ』八七年十二月二十二日号)があり、(2)十二月七日ソウル入りの航空券を手配しており、(3)全斗煥、盧泰愚等の韓国政府要人の暗殺をほのめかすメモを持っていた(『読売新聞』八八年五月三日)ことなどから、北朝鮮が日本赤軍を使った対南テロを計画していた可能性が高い。先に見たように日本赤軍コマンドの戸平が北朝鮮が偽造した疑いの強いにせパスポートを使っていた点も、日本赤軍と北朝鮮のつながりを物語っている。
 以上は、日本赤軍などの実在する日本人を使った対南テロの情報だが、もう一つ「日本人」になりすました北朝鮮工作員によるテロという計画があった。戦後生れの若い工作員に徹底した日本人化教育を施し、にせパスポートを持たせてテロを実行させる。そして捕まれば毒薬で自殺させるという、奇怪なテロ計画は、個人神格化が極限に達し、まったく他からのチェックを受けることのなくなった中で一九七〇年代後半に立案されたものである可能性が高い。実際、大阪市のコック、原さんを拉致する際、工作員、辛光洙は八〇年、金正日書記からの指示を受けているし、金勝一、金賢姫も八七年、金書記の直筆の指令を受けて大韓機爆破を実行したと金賢姫が自白している。
 金賢姫は、一九八〇年三月、平壌外国語大学日本語科二年に在学中に、朝鮮労働党中央委員会調査部工作員として召喚されている。金賢姫に工作員教育を行なった教官たちは、「初めての試みなので、教材もまともに準備できなかった」といっていたという。日本人化教育の教師をさせられている可能性の高い、六人のアベックは七八年の夏に失踪しており、今回問題となった三人は八〇〜八三年くらいの間に行方不明となっている。金賢姫が「恩恵」と称する日本人女性と寝食を共にし教育を受けたのが八一年七月〜八三年三月である。七〇年代後半から日本人を拉致し、彼らの中から日本人化教育の教師に使える者を選び出し、準備がおおよそ整った段階で第一号生である金賢姫らを召喚したと考えるとかなりつじつまが合う。
 八八年に「平壌で無事にいる」という手紙を受けとった三人の家族は、その後で外務省や警察に相談している。その際、外務省から「表面化すると、三人の命に保障がないので公表しないように」とアドバイスされていたと伝えられている(『産経新聞』九一年一月十七日)。もしそれが事実なら、日朝国交交渉が始まるかなり前の時点で、外務省は「北朝鮮という国は日本人を自分の意思に反して国内にとどめておき、そのことを家族が日本で公表すると、その日本人の命に危害を加えかねない国だ」という認識を持っていたことになる。そのような国に対して、なぜ国民の税金を使って経済協力をしなければならないのか、日朝国交本交渉に臨む日本政府は当然その疑問に答えるべきだろう。まず、とりうるすべての手段を動員して、拉致されたまま拘束されている疑いの強い日本人の安否確認と帰国交渉こそが行なわれるべきだろう。日朝国交交渉はそのために有用だと判断される場合のみ続けるべきだ。自国民が外国政府によって危害を加えられることのないように最大限の努力をすることこそ、外交当局が第一に考えるべき課題なのだ。
 (注)本稿で取り上げた北朝鮮工作員事件の事実関係については、『週刊朝日』一九八五年七月十二日号、七月十九日号に負うところが多い。また、金賢姫の証言は趙甲済著『金賢姫は告白する』徳間書店刊に拠った。
(『諸君!』一九九一年三月号)
著者プロフィール
西岡 力(にしおか つとむ)
1956年、東京生まれ。
国際基督教大学卒業。韓国延世大学留学。筑波大学大学院地域研究科修了。
82〜84年、在ソウル日本大使館専門調査員。現代コリア研究所主任研究員を経て、現在、『現代コリア』編集長。東京基督教大学教授。
「救う会」副会長。
 
 
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