日本財団 図書館


解剖学実習を終えて
 奥村 龍
 私が、まだ大学に入学して間もない頃、坂戸駅でバスを待っていた時のことである。隣の席に座った年配の婦人から、あなたはどちらの学生さん、と聞かれたので、明海大学の学生であることを告げた。するとその老婦人は、にこやかな顔で次のようなことを話し出された。
 自分は死後、明海大学の学生さんに解剖してもらうことにしている。しかし、自分が献体を希望した時は、家族、特に子供達がとても反対した。だけど、半年間かけて一人一人説得して同意書をもらった。自分はとても健康で感謝しながら毎日を送っているが、その感謝の気持ちを献体という形で役立てたい。自分が万が一の時には、すぐ大学へ連絡してもらえるよう、連絡先の紙を目のつく所にいつも張ってある。あの大学は、解剖が終えると学生さんが慰霊祭をしてくださり、最後までしっかり面倒を見てくださるので、何も不安はない。と、穏やかな顔で話された。そして、時々、大学から送られてくる、お変わりありませんか、という温かい便りも嬉しいと言われた。
 この老婦人の言葉の一言一言は、私達の明海大学を信頼してくださっていることを、私はひしひしと感じた。私は心の底から、ありがとうございますとお礼を言い、どうかお元気で一日も永く生きてくださいと伝えた。私はこの時、私達が解剖の勉強をさせていただけるのは、献体者一人一人の善意、そしてそのご家族の理解、更には、大学の先生方のご努力、また、先輩達の誠実な実績のおかげであることを知った。それと同時に、私自身、明海大学歯学部の学生として名に恥ない様、日々の生活態度も注意が必要であることを実感した。
 それにしても、これ程多くの人々のたいへんな努力の上、大切なご遺体を提供していただき、若い学生である私達に、解剖実習の機会を与えてくださっているのは、何故だろうか。もしも私達が、医学の学習に必要な解剖学としての知識だけを学ぶのでよいなら、専門の先生と教科書があれば済むはずである。この疑問に対して私は一つの答えを出した。それは、医学の世界に今、進もうとしている私達に「自分は本当は、どういう医師になりたいのか」を、自分自身の頭でしっかり考える機会を与えられているのではないか、ということだった。
 そして解剖実習を終えた今、私は生まれて初めて経験した、この感動と感謝の気持ちを生涯忘れることは無いだろう。自分の選択した歯科医師としての道に改めて、大きな誇りと責任の重さをひしひしと感じている。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION