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2.1 ユーゴスラビア政府の造船政策(クロアチア独立前)
 第2次世界大戦直後にユーゴスラビアの造船所は国有化され、前章で述べたようにユーゴスラビア時代の中央計画経済の下で、造船業は特殊な状態に置かれていた。造船業は、その雇用創出力、外貨獲得力から、戦略的に重要な産業として、1970年代、政府は造船設備に積極的に投資を行った。内戦が始まるまでの間、造船業は投資や直接助成により政府の手厚い支援を得ていた。これに加えて、国有海運会社からの新造船発注もあった。ソ連圏と緊密な政治関係・貿易関係から、経済相互援助会議(CEMA)加盟国の船主からの発注も行われていた。
 
 1980年代末のユーゴスラビア経済の悪化により、ユーゴスラビア政府は造船業への支援を、突然、縮減せざるを得なくなった。インフレも加わり、ユーゴスラビア政府は1989年に全ての輸出補助金を廃止し、同年末にはユーゴスラビア通貨のディナールについて対ドイツマルク固定相場を設定した。100%を上回るとされたインフレは、急速に収まったが、ユーゴスラビアの輸出産業の国際市場における競争力は大幅に落ち込むこととなった。これによって外国船主からの受注に大きく依存していた新造船事業(約90%)は壊滅的打撃を受けた。
 
 クロアチアの四大造船所は、1990年11月にユーゴスラビア連邦政府を相手取って、ディナール高により造船業が被る悪影響の補償を求めて提訴を行った。補償は得られなかったものの、1991年4月には、政府は造船業やその他の輸出産業の抱える問題への対応を支援するため、金利の引き下げで緊縮政策を緩和した。
 
 結果的に、ユーゴスラビア政府の「ディナール高政策」は、インフレをコントロールする必要があったことを別にすれば、極めて有害であったと見ることができる。この政策は、韓国造船事業者の国際市場シェアの拡大と時を同じくしたこと、内戦の直前にとられたことから、クロアチアの新造船受注量の大幅な落ち込みを招くこととなった。
 
 この他のユーゴスラビアの造船政策による影響としては、次のようなものがあげられる。
 
◆ 1980年以降、新規投資が大幅に不足したため、1980年代にユーゴスラビア造船業は成功を収めたものの、1990年代初めにはクロアチア造船業は時代遅れの設備と設計・建造に関する新技術の導入の遅れといった問題を抱えることとなった。
 
◆ 複雑で非効率な造船所経営構造が残り、非中核事業の廃止や社会主義時代の経営方式の合理的・商業的経営方式への転換を難しくした。
 
 こうした要素が赤字体質を生み出し、造船業は、1990年代も引き続き負債の増大、新規投資の抑制、民営化の遅れを余儀なくされることとなった。








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