日本財団 図書館


海の伝承[1] 信号旗の起源
杉浦 昭典
 
 紀元前四八○年アテナイを席巻したペルシャ王クセルクセスは、海上へ逃れたギリシャ軍をサラミス水道へ追い込んだ。ギリシャ勢の軍議は、コリントス地峡まで退いて戦おうというものとサラミス水道で反撃しようというものが対立し紛糾した後、狭水道内での対峙を主張するアテナイの指揮官テミストクレスの提案を容認した。
 テミストクレスはスパイを放ち、ペルシャ軍への内応とギリシャ全軍のコリントスへの逃亡をほのめかした。これを信じたペルシャ軍は、ギリシャ軍船団の逃走を阻止しようと全軍の三分の一に当たるエジプト船団をサラミス水道西口へ急行させ、残る主力のフェニキア船団と東ギリシャ船団で水道の東口を封鎖した。
 これを知ったギリシャ軍は、少数のコリントス船団を夜明けとともに狭隘な西口へ急派して防御し、主力のアテナイ船団がサラミス島を背にして幅一・六キロの水道を塞ぎ、殺到するペルシャ軍船団を迎撃する陣形を取りながら、オールを逆に漕いで後退し水道内へ誘い込んだ。浅瀬や暗礁の所在を熟知するアテナイ船団は機をうかがい、中央突破を狙うペルシャ軍船団が狭い水道内で身動きできなくなったところを巧みに包囲すると突然攻勢に転じたのであった。
 反撃の合図は、アテナイ船団の指揮を執るガレー船上で、知将テミストクレスが立てたオールに結んで翻した赤マントであったという。ギリシャの軍船は次々と敵の船腹に容赦なくラム(船首衝角)で激突して浸水させ、遂にギリシャ軍は三百隻の劣勢でペルシャ軍一千隻をせん滅した。サラミス島の対岸で海戦の一部始終を見守っていたクセルクセス王はペルシャ軍の敗北を認め、ギリシャ侵略を諦めて撤退するほかなかった。
 サラミス海戦で赤マントは本当に翻ったのであろうか。海の信号旗の起源として必ず引き合いに出され、あり得る話ではあるが、多分に恣意的であり確証もない。本来なら合図の旗を掲げるべき場面であるが、まだ船上で旗を使う習慣がなかった。旗に相当するものを船に掲げるようになるのは、地中海で十二世紀末、北ヨーロッパで十三世紀中期であった。
 船の所属はそれまで大きい帆面や船縁に並べた楯に描いた紋章で表示した。紀元前からあったという陸上の旗には複雑な紋様に精緻な意匠を凝らしたものが多く、その素材も船舶用には適さなかった。海で遠くからでも識別しやすい色彩の組み合わせと簡明なデザインが船舶旗には必須の要件である。
 国籍を明示する船舶旗は海の信号旗の嚆矢でもあるが、船舶旗がそのまま国旗となった例もあり、広く近代国家における国旗の規範にもなってきた。また国によっては船舶旗を商船旗と軍艦旗その他に区分することがあり、必ずしも国旗と同じではない。
 イギリスの船舶旗には商船旗、官船旗、軍艦旗の三種がある。商船旗はカントン(旗面の左上方、旗面積の四分の一前後に相当する部分)に国旗を配した赤地の旗、官船旗は同じく青地の旗であるが、軍艦旗は白地を赤十字で四分割りしたカントンに国旗を配した旗であり、国旗のユニオン・フラッグを艦首の小さな旗竿(ジャック・スタフ)に掲揚することからイギリス国旗はユニオン・ジャックと呼ばれる。なお商船の船首旗は船主旗(社旗)であり、船舶旗は船尾の見えやすいところに掲揚する。
z1028_01.jpg
 またアメリカの船舶旗は商船旗と軍艦旗の区別なく国旗の星条旗と同じであるが、軍艦の艦首旗は意匠が星条旗のカントンに当たる部分だけの旗である。このように船舶旗の意匠はそれぞれの国によって独自に定められているため、海上における船の所属国籍を識別するには、それぞれの国の船舶旗を先ず知らなければならない。
(神戸商船大学名誉教授)








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION