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対談・共振共鳴する大阪・・・中川 真+橋爪 紳也
◎身体感覚を変えて見えてくる文化◎
橋爪………もっとも大阪らしい場所として、私なりに考えて今日の席を設定しました。このあたりは私の故郷ですが、南地・島之内と呼ばれた盛り場の真ん中です。つい最近まで昔からのお茶屋街の雰囲気が残っていましたが、年々、料亭が店を閉めています。そのなかで唯一、かつての面影を伝えているのがこの店なんです。言い古された形容で言えば、盛り場の喧騒のなかで、ここだけ時間が止まっているような独特の場所です。この二十年ぐらい、大阪に限らず日本の都市は急激に変わった。それは従来の近代化の過程において見られたように、単なる高度経済成長に応じてオフィスビルが建っていくだけではない。またライフスタイルが変化しただけでもない。人々が街を捨てて、かつ建物も地上げによって空白域ができてゆく。戦時のごとく、既存のすべてを壊してしまうような都市の変容がありました。特に都心は壊滅的でした。ただここには昔ながらの風情がある。まちなかの暮らしがある。また地域のコミュニティの中心にあった地蔵を独力で残して、ここのお母さんが一所懸命守ろうとしている。まわり三方地上げに遭い、完全に島みたいになっていますが、ここに大阪らしい都心の生活が垣間見られます。
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南地の料亭の傍らにある地蔵尊堂の前で、右から中川真、橋爪紳也の両氏
中川………それは古きよき大阪としてではなくて、新しき大阪として見直そうということですね。
橋爪………新しいかどうかわかりませんが、周囲があまりにも変わったがゆえに、相対的に魅力が生じたと思います。
中川………つまり後ろ向きではなく、いっけん古いものを、前向きのヴェクトルで捉えてみたいということなんです。
橋爪………ここが新らしい大阪だというわけではなくて、世界中、割とよく似た近代化によって生じている均等さに対して、相対的に現れてくる特異点のひとつだと思うのです。実はこれからの時代は、ここのような個性のある空間が、私たちにとってとても大事な場所になるのではないかと思っています。それが都市の文化を語る拠り所になると思う。今もちょっと三味の音色が聞こえてきました。中川さんはひろく音環境に関して考えてこられてきましたが、まず、この場所で何を思われたか、お話しいただこうと思います。
中川………さっきからほのかな笑い声が洩れ聞こえてきてますよね。みんなシーンとして悪巧みしているのではない声です。襖で仕切られた作りで、密閉していないからよく聞こえますね。そういう意味では、アジア的な空間といってもいいでしょう。
橋爪………障子や襖といった建具は完全に閉ざすでもなく、完全に開くでもない。そこに遊んでいる人は、若いものが居酒屋で騒ぐように周りの迷惑を考えず、大声を出すのではなくて、その場その場で適正な声で鍋を囲み、集いという「場」を作ろうとする。鍋を媒介としてコミュニケーションをはかる。その時、参加者がなんとなくかたちづくる程のよさ、半端さが居心地の良さを生んでいますね。文化論といってもいろいろ見方とか切り方がありますが、ひとつには身体感覚とか感性の感度を切り変えることで初めて見えてくる文化があると思うのです。
中川………そうですね、研究のなかに身体論的観点を放り込んでみると面白いですよ。それは空間の研究にもなりますから。たとえば、「古事記」を研究している学生がいたら、特に音という感覚面で捉えてみたらということで、頭のなかではなく、実際にシナリオを書いて、他の友達を日本武尊や天鈿女命の役にしていいから、僕の目の前で上演しなさいという課題を出します。音が三次元で響き、また空間をどのようにつくるのか、それを身体で実感してほしいからです。神話の神々はどういうふうにして大地を踏みしめて音を出すのかとか、自分の身体で表現してみることですね。僕は音を中心的なテーマとして取り扱っているけれど、それを発する身体、感じる身体というふうに、常に身体を媒介として捉える視点を忘れないようにしています。それは、僕がインドネシアでガムランとか舞踊と関わっているせいで、書記されたことに対する疑問とか批判というものを、いつももっているからでしょう。口頭性というかオーラルであること、そしてそこから導き出される身体伝承に、ことのほか強い関心をもっています。そういったことを、単に研究対象として相対化するのではなく、身体伝承という事態をアカデミックな教育のなかに積極的に取り込んでみたいと思っているのです。そうなると、知のありかたも変動するのではないか。臨場性、臨床性みたいなものが大切になるんですが、そこでは教育はマンツーマン的なものにならざるを得ない。それがマッシブな教育になれれば理想的なんです。
 いまのところ、あまりたくさんの学生をとれないのですが、そういうことが分かってくれた学生たちからの反応を、楽しみにしているのです。
橋爪………教員の側からみると、それぞれの学生との関係は個と個の対応になる。その関係性をほかの学生も見て、自らを考え直す機会になればいいですね。
中川………電子情報的なネットでなく、実際に手と手が触れ合ったりしてできるネットになって、その中で考えられることができたらいいなと思っています。寺子屋かな。
橋爪………中川さんと一緒に創ったわが大学院では、教材としてガムラン一式を購入しました。スタジオを作る予定ですが、どう使っていきますか。
中川………ガムランを演奏したり、ジャワの舞踊を勉強します。但し、それだと練習を重ねるだけの月並みな教育になりそうで、もうちょっとダイナミックに楽器が使えないかと思案しています。いま構想しているのは、地域の小学生に月に二、三回研究室に来てもらってガムランを教え、ガムランの音の世界に入ってもらおうかな、ということです。大学だからといって、大学生だけに教えるのはつまらないですよ。高校生に教えるのは、なんか受験生獲得みたいで嫌なんですが、小学生だったらね。それに、小学生が初めてガムランを見たときの反応って面白いですよ。こちらの予想もしない質問がきます。例えば、ガムランの演奏家はどんな動物が好きなんですか、などという。僕はジャワでもそんな質問を向こうの演奏家にしたことがない。でも、ひょっとしたら、そこから新しい研究の道筋が見えるかもしれません。院生がアシスタントとして一緒にいることになるので、小学生の反応を見ることにより、何かを取り戻すのではないかと思います。今でも毎週、大阪や奈良の小学校で授業をしているんですが。僕自身も変わりますね。それは一体何なのかわかりませんが、すごく大切なもののような気がします。小学生が喜んで楽器に跳び付く瞬間のエネルギーはすごいものなんですが、他方で、小学生が納得するように説明するのにもすごくエネルギーがいる。その繰り返しによって循環性が生じていき、小学生と自分の体が共振していく感じがします。そして、こういった身体共鳴とか身体共振もまた僕のテーマになっています。まさにガムランはひとつの振動で、それ自身共鳴しています。音と共に僕も他の人とも共鳴、共振する。それをあらゆる場に求めたいなと思います。
橋爪………文化を教養として学び、知識として考えがちな院生に、身体性を伝えることは難しいですね。
中川……大学というところは、知識のストックを伝えていき、また知識を得るための方法論を教えるところですが、知識のストックだけでいいのか。知識としては捉えにくい経験のストック、つまり物事を実感して理解するということが、なおざりになっているのではないかと思います。芸術系の大学だったら、感じることがとても大きなファクターになるんだけれど、一般の大学ではなおさら必要だと思います。感性っていうのは、美的なものもあるし、倫理的なものもある。そういうのを頭で理解するのではなく、身につけるという、まさに身体伝承的なことを、個々のディシプリンのなかでやるべきです。僕たちのアジア都市文化学でいえば、さきほど紹介したように、アジアの芸能に取り組んだり、テキストを劇化したり、ストリートでパフォーマンスしたり。そういった体験を積み重ねながら、身体能力を、つまり聴く、話す、視るなどといった基本的なパワーを高めて、論文を書いてほしいと思います。文章や文体なんて、その人の身体のありさまが最も如実に現れるんですから。
橋爪………大阪にあるチルドレンズミュージアム「キッズプラザ大阪」から、展示更新するというのでアドバザーに入ってくれといわれました。その展示は社会、文化、科学などと分かれています。「文化」のコーナーは異文化理解がテーマになっています。現状はアジアを含めていろんな民族の衣装や楽器、おもちゃが置いてあります。着替えて楽しめたり触ったりして遊べます。ただ子供たちがそこでどう遊んでいるかというと、いろんな太鼓をポコポコ、カンカン叩いてああ面白かったで終わってしまう。すぐに去っていく。各民族の衣装を着てお母さんたちが記念写真を撮って、ああきれいだねと言って帰っていく。子供たちはもうひとつ楽しそうではない。ところが「社会」の展示では、車椅子の乗れる展示があって健常者が身体障害者の体験ができる。わざとでこぼこした道が作ってあって、車椅子で移動することの大変さを経験するのです。これが非常に人気がある。さらにもっと人気があるのは、いろんなシャボン玉が作れる「科学」のコーナーです。一番巨大なのはリングの中に立って、石鹸水にそれをジャボンとつけて上にあげると、自分がシャボン玉の中に包まれる。中から息を吹くと自分の周りの壁全部に小さなシャボン玉がぶくぶくと増殖する。見ている人も次は自分が中に人りたいと思う。大人気なのです。この間、うちの院生を連れて行ったのですが、やはりこのシャボン玉を楽しんでいました。でも院生も先の「文化の展示」では楽しめていない。文化の展示の仕方、異文化の示し方が大変に難しいことにあらためて気づかされました。何がみずからと違い、何が同じかということを示すことは、またそれを体験させることはなかなか困難ですね。
中川………小学生にはアフリカの太鼓よりシャボン玉のほうが異文化でしょう。太鼓は想像できるものです。シャボン玉の中に入ることは想像できないことですから。
橋爪………同じミュージアムの文化コーナーに大きな地球儀があって、そこにイヤホンを差し込むとその国の言葉で挨拶をしてくれる装置がありますが、二、三回差し込むと飽きる。違う言葉の体験ができるわけだけど余り面白みがない。あるいは外国の住居をそのまま再現して説明しても、それでも子供たちの心には届きそうにない。
中川………来た人が再編集できないのでしょう。シャボン玉の場合いろんな形を作ったりとか、自分で新たに作り上げる面白さがありますね。








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