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◎3 方法の学として◎
 ここにおいて私たちは、「西洋都市」「アジア都市」という類型そのもののあやうさについて、再度、目を向けるべきであろう。近年、地域の固有性や特殊性にばかりに、関心を持ちがちであった従米の「地域文化研究」は、「比較文化研究」へと、おのずと姿を変えつつある。差異を語り続けてきた結果、特殊性のなかにも共有されうる概念や理論が芽生え、地域へのまなざしに一定の枠組みが用意されたと見て良いだろう。また経済や社会の仕組みに限らず、文化の領域にあってもボーダレスないしはグローバル化があきらかになった結果、世界中の各地域に諸文化の断片が混在しつつある。この傾向は、とりわけ都市にあって顕著である。多文化主義を当然の前提として、都市内部にあきらかになっている多様性が語られるべきなのだ。
 「多文化」の内実は、民族文化に限るものではない。たとえばカルチュラル・スタディーズなど、昨今さかんに喧伝されている「空間に関わる文化」をめぐる議論では、エリート主義的な見方への批判と脱植民地主義の流れを背景に、都市における「若者文化」「ジェンダーの文化」「同性愛者の文化」「大衆文化」等のありようが分析されている。そこでは地域の文脈で語られる文化ではなく、世代ごとに共有されるであろう文化の優位性、さらには性差によって普遍性を持ちうる文化のありようなどが語られている。もっとも欧州で注視されているこの新しい「空間文化研究」は、階級社会への批判を前提としたものであったと考えてよい。その視点や方法論が、そもそも階級社会そのものが緩みきった戦後日本や、転倒し得ない階層社会を持ちうるいくつかのアジア諸国にあって、そのまま導入しうるかというと、いささか懐疑的にならざるを得ない。
 しかしそれを了解したうえで、新たな「空間文化研究」の必要性を協調したい。これまでアジア諸国にあっては、都市研究や文化研究にあっても、欧米の都市研究のモデルと方法論が持ちこまれてきた。近代化を果たしたアジアの諸都市は、もはやエキゾティシズムの対象ではないと経済学者たちは断じるだろう。しかし「文化」を背景とした生活、いわば「文化資本」を前提とした都市の営みが不断のものであるとするならば、地域の固有性へのまなざしは、まだまだ有効ではないか。
 そもそも現代の世界都市は、すでに「多文化」を包括している。欧米の諸都市にあっても、旧植民地などからの移民者が都市内に、「アジア都市」とでも呼ぶべき集住の様式や空間を構築しているという見方が可能だろう。「西洋型」とかつては類型化された都市基盤のうえに、「アジア都市」とでも呼ぶべき空間と営為に関わる事象、さらには「諸民族の都市」が併存しているのだ。逆にアジアの諸都市にあっても、欧米から導入された都市秩序をかたちづくる諸々のシステムに、実に多彩な各民族の所産が入り混じっている。しかしその混合の具合が、アジアでは欧米の都市とはあきらかに異なるのだ。「都市文化」という視点から、「アジア都市」なる概念を、今一度、照射したいと考えるゆえんである。
 「文化」とは、もとより多くの人と人との関係性が生みおとす所産の総体である。価値観やライフスタイルが変容すれば、本質もおのずと揺れ動く、ゆえに「アジア都市」「アジア都市文化」なるものも、「型」は常に変化するものという前提のもとに定義がなされるべきだろう。「アジア都市」ないしは「アジア都市文化」なるものの本質は、都市文化が生成するプロセスとダイナミズムの内にあると考えたい。
 それは「近代化」「都市化」を、画一とみなす立場からの、都市空間の解読にあらがおうとする試みであり、創造に関する思索である。また「結果としての文化」ではなく、むしろ諸文化が都市という「場」にあってハイブリッド化するそのディテールや、その所産こそ重要な意味を持つ。西洋を含めた世界の部市にあって、すでに「アジア都市」なるものの断片は、今後の都市文化を語るうえで重要な遺伝子のひとつとして組み込まれている。
 自明のことであるが、グローバル化とは、単に画一的なシステムが世にあまねく普及することではない。地域ごとに異なる「同化」と「異化」を重ねつつ、新しい都市をつむぎだそうとする実験にほかならない。都市を対象とした文化研究は、方法論の試行錯誤をも含めた、いわば「方法の学」であるべきだ。
◎4 アジアの「都市文化学」か、「アジア都市」の文化学か◎
 アジア諸都市に固有の文化を探すことだけではなく、同時に欧米も含めた世界中の都市にあって、普遍性をもって見いだされる「アジア都市の断片」、いわば異文化にあって出現した「内なるアジア都市」に対しても私たちは意をそそぐべきであろう。もちろんそれは、中華街や日本人街などというまとまりに限るものではない。食文化や美術工芸、玩具やアニメーションなど生活文化の隅々に、「アジア的なるもの」を発見することが可能だ。
 日本の諸都市も例外ではない。しばしば「アジア的」と形容される街がある。たとえば大阪や福岡が典型であろう。根拠を問うと、雑然としているが活気に満ちた「盛り場」の存在を指摘する人が多い。あるいは「屋台」に代表される仮設の商業空間の存在がその理由になっていたりもする。東京などでも新宿歌舞伎町や新橋駅前界隈、裏原宿の風景など、名古屋では大須界隈の雑踏などは確かに「アジア的」かもしれない。地方都市においても韓国料理はいうまでもなく、ベトナムの雑貨や食べ物の流行、アジア流のエステなど、各種の「アジアン・テイスト」が、日本化されつつ都市文化に吸収され、消費され、再創造がなされ続けている。
 私たちはアジア地域に点在する個別の「都市文化」に学びつつ、同時に「アジア都市」が産み出した生活文化の影響力にも関心を持つべきではないか。このような想いを抱きつつ、二〇〇一年春、大阪市立大学大学院文学研究科に設置された「アジア都市文化学専攻」に、筆者もスタッフとして加わった。
 インドネシアや日本の都市における音環境、マレーシアのイスラム文化、朝鮮の文芸や映画、中国における思想史、東アジアの諸民族の比較思想史、アジアにおける都市型観光の研究など、教員の研究テーマも多岐にわたる。また一期生および次年度の入学予定者では、社会人が過半を占める。彼らは、中国のファーストフード、朝鮮における日本食、アジア各都市のオフィスビルの環境比較、紙芝居の文化研究、日本における中国人観光客の嗜好、大阪におけるフィリピン人の生活など、みずからの関心を大学に持ちこんでくる。主題に一貫性はない。関心と主題の混ざり方の妙に期待したい。常に新たな「文化の型」を語りつつ、同時に既存の「文化の型」を壊す視点を発見し続ける、新たな文化研究の可能性を拓く場としたいと思っている。
 本号ではアジア都市文化学専攻科のスタッフに加えて、大阪市立大学大学院文学研究科にゆかりのある研究者の論を集めている。ここに示した「論」や「語り」は、私たちの試みの端緒にすぎない。新たな「アジア都市文化研究」の拠点が、大阪に誕生したことを告知して、この小論を閉じておきたい。
<大阪市立大学大学院文学研究科助教授・工学博士>








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