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 こうした祠廟が回復する背景には、規模が小さいことが挙げられる。つまり、用途を転用して利用することがしにくかったのである。
 さらに、中庭をもつ祠廟もある。厦門に現存するものには、二つないし、三つの棟で構成されるものがある。四合院の住宅のように、敷地境界いっぱいに建物が配される。間口は三つの柱間をもち、前後の二つの棟に挟まれて中庭が形成されるのである。中庭には、中央もしくは両側に屋根を架けた廊下が設けられ、前後の棟がつなげられる。壁で囲まれているため外観はきわめて閉鎖的であるが、内部は至って開放的である。間仕切壁はほとんどなく、建物に入ると柱が林立し、内部が見渡せる。(図[7])
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図[7]同安の媽祖廟
一つの中庭をもつ空間構成である。前後の建物を結ぶ通路は両端に取られている
 二つの棟で構成される場合、主神は後方の棟の中央に祀られる。ここでも、両脇には配神が祀られている。
 厦門では、さらに規模の大きな祠廟は現存しない。今となっては、絵図でしか知ることはできない。規模の大きな祠廟は、その威厳を示すかのごとく「厦門志」の巻頭に登場するのである。(図[8])
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図[8]「厦門志」の巻頭に載せられた朝天宮
朝天宮は城壁のすぐ外側に立地していた。右上方に描かれた女垣は厦門の城壁である
 空間構成は複数の棟からなり、それぞれが分棟で配されている。その配置には明確な中軸線をもっていることがわかる。そして、敷地は高い塀でぐるりと囲まれている。主神は敷地後方の二階建ての建物に祀られていたはずだ。敷地の前方に着目してみよう。そこには、コの字型の障壁がある。障壁の真ん中の屋根が架けられた建物は、神に捧げる奉納劇を演じるための戯台だ。規模の小さなものには見られなかった要素が備わっている。
 このほかに、厦門には一風変わった祠廟がある。それは、民国期の都市改造で登場した。既成市街の大改造の特徴は、連続するアーケードの街並みをつくりだしたことにあった。都市計画された街路に沿って、既成市街が少なからずクリアランスされた。当然そこには祠廟も存在していた。開発の際に、消失してしまったものも多い。が、街路に面してアーケードをもち、多層化した新しい住まいが与えられた神がいたのだ。南寿宮はその一つである。建設当初、神像は一階に祀られていたという。現在では、その建物の屋上に回復した姿を見ることができる。(図[9]写真[11])
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図[9]騎楼の屋上に回復した南寿宮
都市改造により、従来祠廟のあった場所が市場になったため、騎楼に移転した。したがって、場所は多少変わっている
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写真[11](図[9]と同じ)
 神々の住まいは、人々の篤い信仰がある限り、常に存続する。そして、信仰が集まれば寄付も集まり、住まいは更新されていくのである。








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