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日本人のニホンミツバチ観
 塚本 学
 
 日本で、動植物についての知識の記録化は、江戸時代中期にいちじるしくなる。日常的にこれに接触して生きてきたひとびとが文字世界に参入してその知見を著作者たちの利用に供し、支配層の都会居住者が各地の生業の場に興味をよせていったのである。
 「本朝食鑑」(一六九七年)は、江戸城の庭園内で蜂を飼って蜜を採るのを楽しむことがあったかに記す。まとまったニホンミツバチ観察記録の最古の例であろう。巣箱の説明につづけて、「蜂王の座」と「群臣」がそれぞれの官職があるかのように「列座」するとした。多くの蜂が朝巣を出て、ひる頃花のしんやしべを持ち帰るが、入り口には二匹の大きな蜂がいて検査し、花をくわえないできた蜂を追い返す、逆らう蜂は他の多くの蜂によって刺殺されると記す。巣が風雨に侵されたり、人に絶えずのぞかれたり、汚物や虫類が巣に入ったりすると、すべての蜂は巣を捨てていなくなると注意してもいる。
 蜂の分業等の観察成果にちがいないが、当時の人間社会にひきよせてその行動を解釈していることは否めず、怠け蜂の処遇などは、とくにひきつけ過ぎであろう。蜂の生態は洋の東西を通じて、ひと社会を連想させる面が多かったし、日本の観察者は、中国の文献、とりわけ「本草綱目」の圧倒的な影響を受けていた。一六世紀末に成立し一七世紀初にもたらされたこの本は、「礼記檀弓編」の蜂は冠をつけているとの記事を引いて蜂に「君臣之礼」ありとし、また王は無毒で刺さないのは君の徳に似る、王を失えば群が潰れるのは臣の節義を示すなど、蜂の封建道徳を強く認めていた。
 その「本草綱目」が一面で、蜂は花をとって小便で醸して蜜にする、臭腐が神奇を生ずるとした。西洋の世界で蜜蜂が牡牛の死体から生まれたと長く説かれていたのを連想させる奇妙な説であった。「本朝食鑑」の少し後「大和本草」(一七〇八年)が、これを明解に否定したのは中国本草学からの自立表現でもあったが、「後鶉衣」に載る「鳥獣魚虫の掟」(一七五九年)という戯文では蜜蜂を小便売りに擬していて、世間ではなおこの説が一般的だったようだ。「家蜂畜養記」(一七九一年)(「古事類苑」所引)は、紀伊の養蜂家出身者の著作のようで、暮春から仲夏までの間、快晴の日の夕刻近く巣を出て騒ぐ「八時噪」という現象とこれについでみられる分封活動、新しい巣の収容法、分封数の予測法、外敵に襲われた蜂の戦い等々のくわしい記述とともに、蜂が不潔なものに集まるのも、蜂の足に人の尿がついたのも見たことがないとし、小便で蜜を醸す説を強く否定した。
 「家蜂畜養記」の筆者は、蜜蜂に君王ありという古人の言を始め疑ったが実見して信じるようになったと記す。文献や擬人化への依存から自由な観察者で、養蜂家の実務に応じた知識の普及に力を入れた。だがそこでも、分封後の蜂がもとの巣に戻ることは許されず、誤って入るものは殺される、「執事の臣」が王命を行うので法は厳しいなどとする。「虫の諌」(一七六二年)と題する本が、蜂を「代々帯刀の武職」としながら、「口にあまき蜜ありて腹にするどき剣をかくす」「才ありて徳なき生まれ」とするなど、「後鶉衣」の例と同様、戯文類が蜂にきびしいのに対して、まじめな観察者の方が蜂に封建道徳を認める傾向が強い。
 「家蜂畜養記」が刊行されずに終わったのに対して、「日本山海名産図会」(一七九九年)(34頁参照)は、綿密な観察の成果を広く読書人たちの場に普及させた。「八時噪」の記載など「家蜂畜養記」と重なるところも多く、紀州熊野での観察が中心のようだが、諸国の養蜂にも目を向ける。蜂の分業について、「多く群れて花をとる物は巣を造らず、巣を造るものは花を採らず、時に入替りて其役をあらたむ」ことにも注意する。黒蜂十ばかりを「細工人」と呼ぶが、その職掌に花を持たずに帰った蜂を監査して従わないものを刺し殺すとするのは「本朝食鑑」説によったのであろうか。
 日本列島に人類の生活がはじまった頃には、すでにそこにはニホンミツバチが棲息していて、蜂たちは蜜をつくっていたにちがいない。食材を求めて山野の動植物に鋭い目を向けたひとびとが見過ごすわけはなく、蜂蜜の採取は縄文時代以前にはじまっていたろう。養蜂のはじまりはずっと遅れ、その地域は限られていた。紀州熊野をはじめとして各地の養蜂生産が記録されていった江戸時代にも、養蜂によらぬ蜜の採取も行われていた。「本草綱目」での、石蜜・木蜜・土蜜と家蜜という分類がこれに相応し、「大和本草」が木蜜以下の三つは蜜として同一としたように、野生の蜜蜂の巣を採っての養蜂は、分封の巣の採取育成技術と通じたろう。「家蜂畜養記」は、南方は温暖で家蜂があり、寒い北方には土蜂があるが、よく養えば「土蜜」も「家蜜」のようになろうと期待し、「日本山海名産図会」は、山蜜・家蜜に二区分して山蜜の方が濃厚で良いとするとともに、土を深く掘って巣を作る土蜂の一種にも蜜があり、南部地方でこれをデッチスガリというとの記述を残す。自然界に利用すべき生物を求めるうごきはこの時代にもつづいていた。
 「栗氏千虫譜」(一八一一年)は、凶年には無能の「黒蜂」が多くまじり生ずることがあり殺さねばならない、これは「土蜂ニアヤカリテ」生ずるものであるとの記述も残す。一八世紀末にも、将軍家や紀州家の江戸の庭中に蜜蜂が飼育されていた。筆者はそこからの知見も生かし、その分業状況を図のように認識していた。養蜂術の面からも、それぞれの役割変更やこれと「土蜂」との関係など、観察力はなお問われねばならず、それがニホンミツバチの範囲についての理解にも通じたろう。だが、多くの虫について記録したこの大著で、蜂の記述を冒頭に置いたのは、群臣が君命を守り、子が父の令を受け、孜々として蜜を醸すに勤め苦辛することは人倫以上という瑞奇を人に知らせるためであった。
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「栗氏千虫譜」に描かれた蜂(栗本丹洲筆・服部雪斎写 国立国会図書館蔵)
 自然界の動植物に日常的に接していたひとびとの知識と、中国文献による知識とを接合させる試みが、江戸の博物学、日本人の自然知識を高めていったが、文字知識によって実地の観察がまげられる場面もあった。ニホンミツバチのばあい、その行動が封建倫理に適合するかにみえたことの呪縛が、これと別に大きな力をもっていたのである。ただし、金銀を掘り出す鉱山労働者の辛苦を、蜜をあつめる蜂の身の上と同じとした「日本山海名物図絵」(一七五四年)のように、人間社会との類推には別なみかたがあったことも注意されねばなるまい。
 重要な文献になお「本草綱目啓蒙」(一八〇六年)がある。「栗氏千虫譜」と同じく江戸本草学の重要人物で幕府に仕えたものの著作で、先行の文献を受けての共通点が多い。
 この稿について、篠原徹氏から、渡辺孝「ミ、ツバチの文化史」(一九九四)「ミツバチの文学誌」(一九九七)(ともに筑摩書房)の興味深い二書を教えられるなどの貴重なご協力をいただいた。
<国立歴史民俗博物館名誉教授>








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