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新老人の生き方に学ぶ[13]
88歳まだまだ途中下車(3)
−絵本一直線−
児童文学者 わだよしおみ
 
 朝鮮で2年暮らし,戦況が日本不利に傾いた頃,母が亡くなり,私は妻と生後6ヵ月の長男を伴い帰国しました。東京も危ないので,妻と長男をすぐに新潟の実家へ疎開させました。予想通り,米軍の大空襲がはじまり,4月の大爆撃で,私は何もかも失い,浦和の叔父の家に身を寄せました。
 片足をもがれた友人を見舞いに行った慶応病院は,廊下までびっしり負傷者でうまっていました。8月には広島・長崎に新型爆弾が落とされ,日本は全面降伏しました。
 その翌年21年,中学の同窓の小川誠一郎君から,うちに来て仕事をしないかと誘われました。彼は誠文堂新光社の社長になったばかりでした。私は教育雑誌「カリキュラム」の編集にあたりました。教育界では新しい教育ができると燃えていたのですが,それはすぐに萎えてしまいました。
 出版部長になり,児童劇集の刊行をしている時,劇団東童の宮津博氏に会い,私は劇を書くことになりました。宮沢賢治の「よだかの星」を劇化して,上野松坂屋ホールで上演されると,大好評で「読売児童演劇賞」を受けました。
 当時開始されたばかりの民放,TBSや文化放送,大阪ABCから,私に児童部門のドラマや物語の注文が殺到しました。「あしながおじさん」「ほら男爵の冒険」などなどです。私は作家として独立することに決めました。放送局や出版社からの収入で暮らせたからです。昭和26年,36歳の時でした。私は書きまくりました。収入もよくなりました。しかし,それは数年で,長続きしませんでした。
 40歳を超えると注文は減り,私はスランプに陥りました。頭の中がからっぽになりました。おまけに,友人が作った出版社が破産,印刷代の請求が,私の方へまわってきたりしました。
 私が家族4人を抱えて,どん底に落ちた時,放送局の友人から,電機メーカー日立のPR誌のライターにならないかと勧められました。
 大企業の日立です。試験的に書いた原稿が及第しました。収入安定のため,十余年この仕事を続け,息子3人をどうにか社会に送り出しました。取材で全国をまわる楽しさはありましたが,自分のものが書けない不満も残りました。
 52歳の時,大転換が起こりました。佐藤英和,森比佐志それに私が加わって,創作絵本のこぐま社の出発です。私はこぐまの仕事に全身全力を傾け,数々の作品を創出しました。60歳を過ぎた時,大日本絵画の編集顧問になり「しかけ絵本」を広めました。欧米への進出もはかりました。
 70歳から80歳の10年間は,日本児童教育専門学校の創立にかかわり,絵本創作科,童話創作科をつくり,私は絵本論を講じました。
 その時創設したJULA出版局では,50年の間埋もれていた3冊の手帳から「金子みすゞ全集」を出版し,みすゞ現象と呼ばれるほどの反響をいまも起こしております。知的放浪88年の今「日々これ友あり師あり楽しきかな人生」と私は心に刻んでいます。
 (完)
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わださんの手がけた絵本








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