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新老人の生き方に学ぶ[12]
88歳まだまだ途中下車(1)
−筆一本、野人の人生−
児童文学者 わだよしおみ
 
 2001年6月、私は88歳になりました。妻も84歳、結婚して59年、ふたりとも人の世話にもならずに元気にしています。今年、若い人が10人ほど集まって私の米寿を祝ってくれましたが、親しい会話ができる若い人がいることは幸せだと思いました。
 私が出版社代表、編集者、著者と3種のわらじをはいて、今でも現役で出版に携わっているのは、子供の頃から本が好きだったからです。本を読むには、まず字を覚えねばなりませんが、私の場合は小倉百人一首を母が読み、仮名の取札を探すことで覚えました。5歳くらいの頃でしょう。小学校に上がるときには、住所氏名を漢字で書いて、並みいる人に驚かれたものです。
 大正時代の本は、漢字にはふり仮名がふってありましたから、ひら仮名が読めれば新聞でも本でも何でも拾い読みができました。
 私は福井市に生まれましたが、生まれてまもなく父の事業の失敗で東京に出てきました。しかし父も母も優秀な人だったおかげで、私はもの書きとして独自の人生を築くことができました。16歳年下の弟も、国文学者として東大教授を勤めました。
 私は、20歳から88歳の今日まで、一介の野人として、筆一本で通してきました。とにかく本が好きで、子供の頃はお小遣いをもらうと、すぐに本屋さんに飛んでいきました。渡辺霞亭の「偉人の幼年時代」は今でも懐かしく、雑誌は譚海、日本少年、少年倶楽部など、区内に図書館があると聞くと週に1回出かけました。昭和の初め、円本といわれ、一冊一円の世界文学全集、日本文学全集が発行されました。父が買ったこの本を、私はむさぼるように読みました。「レ・ミゼラブル」「罪と罰」「復活」私が特に感動したのは、近代劇の親といわれるH・イプセンの戯曲でした。「人形の家」「ロスメルスホルム」「ヘッダ・ガーブレル」繰り返して読みながら、こんな劇が書きたいと、夢見るようになりました。
 中学3年、国語の授業のとき、芭蕉の「この一筋」という言葉にあわせて、「漁夫生涯竹一竿」という言葉が黒板に書かれ、「これは一休和尚の言葉、同じ意味だ」と教わりました。この時、電気がピリリと走りました。「漁師がつり竿一本なら、ぼくは筆一本でやってみよう」。心がそちらに向かうと、学校の勉強はおろそかになり、世界の戯曲、演劇論などを求めて上野図書館、九段の大橋図書館などに通い、読みあさりました。
 また芝居を見るために築地小劇場、飛行館、東劇、浅草と見て回りました。みんな本郷にあった家から歩いて行ったのですが、どうしてそんなお金を持っていたのか、今考えるとよく分かりません。
 しかし、劇を書くことは少しもはかどりません。会話だけで筋を運び、そこに味を出すには経験が浅すぎました。
 中学を卒業し、早稲田に入学はしたものの、私の向かうのは学校ではなく演劇博物館でした。家族もいらだちはじめました。「ぼくに才能はあるのか」私自身も疑いたくなりました。
 その時、速達でハガキが届きました。サンデー毎日の脚本募集に応募した私の作品が佳作に入選、新国劇で上演するというのでした。
(つづく)
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