地域医療と福祉のトピックスその41
しいのみ学園をつくって47年
園長 ?地 三郎
私は明治39年8月16日生まれですから,満94歳です。大正15年広島師範を卒業し,大阪府浜寺石津小学校で教員をしている時結婚し,昭和11年3月11日長男が生まれました。
長男は,赤ん坊大会に出たほどの健康優良児でした。しかし,11ヵ月目に原因不明の高熱に襲われ,歩いていた足は伸びたまま,おもちゃを握っていた手も握れなくなり,「パパ,ママ」と呼んでいたその声も聞けなくなってしまったのです。
昭和30年6月19日に全国一斉に封切られた新東宝映画「しいのみ学園」は,ここから始ります。
病に襲われた長男を抱いて,東京まで名医をたずねて診療を受けましたが,どこへ行っても小児麻痩と診断され,当時の医学ではどうすることもできませんでした。医者に見放されたわが子を抱いている妻の涙の中から見出した言葉は,「科学に限界はあるが,愛情に限界はない」でした。「親の愛情によってこの子を歩かせてみせる。一人前にせずにおくものか」と心に誓って,その子を連れて広島文理科大学の心理学科に入学しました。さらにその後に九州大学医学部神経精神科医局へ入り,心理学と医学の両面からわが子を中心に研究を始めました。
しかし,子供はなかなか歩けませんでした。2年間の就学猶予を経て小学校に上がりましたが,そこでひどいいじめにあい,転校を重ねました。中学2年生の時,2階から階段を突き落とされ歯を8本折り,ついに就学を断念し家に引き取りました。
家では次男もまた脳性小児麻庫で就学猶予をさせられ,座敷の奥で,家の前を楽しそうに学校へ通う子供たちの姿を垣間見て,兄弟が抱き合って泣いていました。親はどうしたらよいのでしょうか。
しいのみ学園創立
私は哀れなわが子の姿を見てたまらなくなり,こうした障害児の学校をつくるため,岩国の何代も続いた妻の実家の造り酒屋と海の回漕業,その他のすべての財産を売って,筑紫平野の菜の花畑の真ん中に,白壁に緑の屋根というモダンな建築の「しいのみ学園」をつくりました。昭和29年4月のことでした。戦後9年目の,まだ食うか食わずかの貧しい時代でした。学校も一学級60人くらいで,午前,午後の2部授業が行われており,養護学校に関しては,日本にまだ一つもない時代でした。
テレビもない時代でしたのでラジオで,就学猶子や就学免除されている子供たちのための学園ができると放送されました。すると,そうした子供たちを抱えで悩んでいる親たちが子供を連れてやってきて, 12名の入学が決まりました。
問題は国や県の認可でした。「しいのみ学園」創立の目的は,脳性小児麻痺のための不就学の子供のために,身体の治療と訓練をしつつ,学校教育を行うことです。まず県の教育委員会にお願いに行きました。しかし,文部省で養護学校令が法制化されていないという理由で,まったくとりあってくれませんでした。
それではと肢体不自由児施設や精神薄弱児施設が法制化されている厚生省で聞いてみると,肢体不自由児施設は全国に16カ所認可しているが,これは病院形式で,院長は外科医に限るというのです。私は医学を研究してきましたが,外科医ではありませんし,建築が病院形式ではないから認可できないといいます。
脳性小児麻痺は脳に障害を受けているから,身体不自由であると同時に知恵遅れの症状があります。知恵遅れならば精神薄弱児施設に該当するが,この施設は知恵遅れに対して生活訓練や作業訓練をするので,肢体不自由を伴っている児童は入所できません。身体不自由と知的障害の双方共有の者を重症心身障害児といいますが,その児童のための施設を作る法令がまだないから認可するわけにはいかないといいます。
とにかく精神薄弱児施設としての認可を申請し,昭和29年4月1日,精神薄弱児施設「しいのみ学園」として,国と県の認可を得て,12名の児童が入園してきました。
教員は私のほかに,福岡学芸大学の第1回卒業生で教育学専攻の山下功さん,田中三枝子さんの2人が来てくれました。保母には,家内の姉妹である久保山登輝子さん,姪の白銀澄江さんをはじめ高校卒業の娘さんたちの手をかりることからはじまりました。
「山の中に捨てられた小さなしいのみも,これに温かい水と太陽の光を与えるならば,必ず芽を出してくる」という親心のもとに,心理学と医学による先駆的独創的な「小集団活動療法」により,重症心身障害児もぐんぐんと芽を出してきました。
認可の取り消し
満1年後,県庁から監査が来て認可取り消しの処分になりました。すべてが法律違反だというのです。
精神薄弱児施設は,生活指導をするところなのに「しいのみ学園」では教育を行っており,創立後182万円の共同募金の配分を3教室と職員室のために使ったこと,精神薄弱児施設に教室は不用だから,黒板をはずして畳を敷いて居室にせよという命令です。私は精神薄弱児こそ教育して社会に適応できるよう自立させることが必要だと力説しましたが聞き入れられませんでした。そのほかにも,保母は10人に1人の比率なのに,3人おくのは法律違反,2人は私の私費で職員を雇ったといっても,それこそ法律違反だというのです。そして当時は,おやつのない我慢の日が一日決められていましたが,しいのみ学園では毎日おやつを出していましたから,それも法律違反です。しかもおやつ代は単価5円と決められていたのに,単価60円のものを出したのでこれも法律違反。他府県の児童の入所も法律違反でした。それで私は「法は守らない。子供を守る」と断言し,認可は取り消しとなり,182万円の共同募金も没収と決まりました。
明日からは無認可,いや非認可でした。国からは措置費も補助金も一切出ません。もうどこからも金はもらうまい。その代わりどこからも嘴を入れられることもない。責任はすべて私自身でとる。自分の学んできた学問で打ち立てた理想を,自分でつくった学園で実現していくのだと決断しました。そう腹をきめると,全身から自分の人生を賭ける猛烈な意欲が湧いてきました。妻も「182万円のお金は即日私が支払います。お金のことは心配しないでください」と励ましてくれました。
以来,行政と戦いながら自分の考えた治療教育の原理を実現する実験教育研究所として,脳性小児麻痺の子供の教育に昼夜を問わず取り組みました。
無我夢中の23年間
無認可の23年間に,しいのみ学園を卒業した子供は88名います。23年間在園した者が2名います。そして4人が大学を卒業しました。その中の1人は和歌山大学の講師になっています。8人は結婚し,息子が東大に行っている家庭もあります。しかし悲しいことに,14名は死亡しています。
昭和54年度から養護学校の義務制が実施されることとなり,無認可のまま小中学校の教育ができなくなったので,子供たちを親元に返して,しいのみ学園は養護学校に就学するまでの知的障害児の通園施設に切り替えて現在にいたっています。
最初に学園の教師になってくれた山下功先生は,九州大学の第1号の教育学博士の学位を取得し,九州大学教育学部障害児心理学講座の教授となり,田中三枝子先生は市内の小学校に就職し,当時では珍しい女校長となりました。
長男の有道は,「しいのみ学園小使」という肩書きの名刺を持って,学園の鐘を鳴らしていましたが, 39歳でこの世を去りました。親戚の反対を押し切って嫁いできた私の妻も,83歳でこの世を去りました。郷里の先祖の墓に納骨する際,学園の椎の木から落ちていた椎の実一粒を「おまえの一生はこの椎の実だったね」と骨壷の中に入れてやりました。
海見ゆる先祖の墓地に納むとき
椎の実一つ入れてやりたり
これがおい茂る椎の木の根の物語です。
しいのみ学園をつくった2年後に,文部省は初めて養護学校を東京と大阪に2校つくり現在800校となりました。どんなに重症の子どもも,教育を受けることができるようになったのでした。
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