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天からの贈り物−第97回−
野村 祐之 (青山学院大学講師)
こわい、やめて!
 子供がいると楽しいことも多いですが、不便なこと、我慢せざるをえないことも多々生じます。
 わが家でいちばん不便なことは、親がテレビをゆっくり見られなくなってしまったこと。6歳の娘の同意なしにチャンネルを変えるのは容易なことではありません。
 それでも「食事中はテレビを見ずに」、「ニュースだけはちゃんと見せて」という二大リクエストはきっちり守ってくれ、時間になると「パパ、ニュースだよ」と、チャンネルを合わせてくれます。
 この素直さについ嬉しくなってしまうのですが、どうやらあちらさん、そうした親の気持ちを見越した上という節もみえるのです。
 とはいえこちらも素直に「ありがとう」と、ニュースだけは落ち着いて見せてもらえる日々が2年前のある晩まで続いていました。
 その晩なにが起こったか。ニュースの最中、娘が突然、頭を抱えて床に倒れ込み、堅く閉じた目には涙があふれています。びっくりして聞くと「パパ、こわい。テレビ消して!」と泣き声で訴えます。
 気づくとそのとき、児童虐待のニュースをやっており、こちらも「こんな親が本当にいるのか。けしからんなぁ」と思いながら見ていたのです。けしからんのはかたわらのわが子の気持ちも配慮もせず、虐待のニュースを平然と見ていた僕も同じでした。
 あのとき以来、何十回、ニュースの途中でチャンネルを変えなければならなかったことでしょう。
 ゆっくり見せてもらえるはずだったニュースも、次に何が報道されるかと冷や冷やしながらしか見ることのできない日々が続きます。
 そこへ飛び込んできたのが大阪池田の小学校での悲惨な事件。「こわい!止めて!」と、頭を抱えて叫びたいのはこちらのほうです。たまたま昼間の報道で、娘はまだもどっていませんでしたのでホッとした次の瞬間、一年生の教室で楽しく過ごす娘の姿にこの事件が重なり、この国は、この社会は、一体全体、どうなってしまったんだ!と取り留めもなく動揺するばかり。
 帰宅した娘は事件のことは知らないようです。その晩はおかずの品数を増やし、ゆっくり夕食をとってニュースの時間をやり過ごすのがやっとでした。
 夜中のニュースによると、犯人には精神的問題があるようだとのこと。首相をはじめマスコミも誰も彼もこぞってたちどころにこれに反応し、そういった病歴のある人達への対処を法的にも再考すべきだとの意見が圧倒的になりました。
 社会的偏見、法的差別の故に非人道的な扱いを受けてきた元ハンセン病の人達に真摯な反省とお詫びの意を表したばかりのことです。
 その数日後、本稿執筆時点では、犯人が処罰を逃れようと精神病を装った疑いが強いと報じています。
 もしこれが事実なら、こんな悪意に満ちた非道な男の思惑に社会全体が振り回され、本当に病に苦しむ人達がとんでもなく不当な扱いを受けかねないところでした。
 それにしてもこのところ、想像を絶する残虐な事件が続き過ぎる気がします。これら一連の事件は、常軌を逸した個人による予想外の犯罪というより、今の日本社会が深く病んでいることの証左なのではないでしょうか。
 そうだとすれば、凶悪犯を逮捕したから一件落着、厳しい法的規制で防ぎ切れるといったものではない気がします。対症療法とあわせて、根本の病因を明らかにし腰を据えてそれと取り組まなければならないでしょう。
 「国の責任は国民の生命と財産を守ること」といわれますが、わが国はこれまで「財産を守ること」すなわち経済活動に血道を上げ、命を守ることに十分な配慮をしてこなかったのではないでしょうか。
 命を守るためには医療体制の完備だけではなく、命に対する感受性、洞察力を育むことが大切です。
 「どうして人を殺しちゃいけないんですか」という高校生の問いかけが話題になりましたが、教育の現場で命の大切さをどう伝えるか、また大人たちが命についてどれほど深く受け止めているか、いまの日本社会では根本的にはそういったことが真剣に問われているのではないでしょうか。
(つづく)








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