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華北戦場黄河の夕陽
矢花 利雄(やばなとしお 一九一五年生)
軍歴
 私は現役兵として一九三七、八年(昭和十二、三年)の二年間東京近衛歩兵三連隊に勤務の後、中国の北京と天津に移住し、四一年(昭和十六年)十二月、日米開戦によって北支軍司令部管下に兵籍復帰し、四三年秋、赤紙(従軍召集令状)を受けて在山東省北支軍五十九師団四十三大隊三中隊に兵長として入隊した。以後一九四五年十月迄一下士官として、中国共産党第八路軍、後の人民解放軍と主に山東省の争奪戦に従った。毛沢東の一貫した持久戦論指導に対し、我等は勝算も大義名分も無い必敗の侵略戦争、来たるべき次の新年は生きては迎えられぬ覚悟ながら、戦友一丸、故国を思って日夜戦いに明け暮れた。
広大な中国
 中国は超大国、十二億の人口に対して三百万の日本軍は東北(満州)から印度国境に至る大陸に散って、征く村々では表向きは日の丸振って「皇軍、皇軍」と“歓迎“し、通り過ぎれば四面皆な敵で情報は筒抜け。一年過ぎれば半数は死に、内地から新兵を迎え、現地在留邦人の三十七歳の後備老兵まで召集し、教育補充を続けて、一個中隊二百人の半数を失う消耗戦に友の死を見送った。
黄河夕陽
 弾は当っても、小さい金属弾が体内を刺し貫ぬく感覚にあらず、バット等で強烈打された様な衝撃を全身に感ずるゆえ、負傷古兵はまず「弾はどこだ何処だ」と聞く。腸への貫通は助からぬことを知っているゆえ。つぎに多いのは「お母さん、家族によろしく」。「天皇陛下万歳」は二百人の死を見送って一度も聞かぬ。上官戦友に聞いても同じ。
下流の山東省に観る黄河は正に大河だ.
 「東岸西岸の柳色違い、南岸北岸の花開く同じからず」の詩の通り。この大河の流域を日夜彷徨する武装の一団、わが東京第一師団が送り出した母体である五十九師団。「和冠奇襲隊」と名づけた風流人は応召幹部候補生の大川中尉とか?。“討伐隊“の今宵の寝ぐらは何処の野辺か?。
山東省日軍「和寇奇襲隊の歌」
 広い大陸夕日が落ちる
 今日の討伐無事でした。
 疲れ疲れて便衣を脱げば、
 可愛いあの娘が目に浮ぶ。
 
 私の小著従軍記を「黄河夕陽」と題したのは、旭日昇天、昇る日の丸連隊旗でなく、しょせん勝味はゼロの我が北支軍中国派遣軍の日没消滅の運命を予測し信じていた心境を表現したもの。
現地自活命令
 出撃中一日、大隊本部に下士官以上集合し、北支軍参謀少佐より軍命令の伝達あり「爾後北支派遣軍は現地自活すべし」の一言。中隊長等の質問に対しては「対米航空決戦に備えて、本国は航空機生産に総力集中。弾丸以外は各部隊毎に現地調達せよ」との棄民宣言である。兵器は敵から奪い、食糧被服一切は現地中国民からの強制買上没収となる。
戦場暴力の元は時間との競争
 悪名高い三光作戦「殺す・奪う・焼き尽す」の生態は戦って捕虜(?)の男を集め、百姓良民か八路兵かを見分ける方法として、手の平のタコと額の日焼けを視る。兵は軍帽をかぶるゆえ額が白い。手にタコが無くて白い奴は、銃・刺・斬殺ということになる。役所の職員、教員、僧侶等は哀れな被害者で、疑わしきは残らず処置された。拷問等するのもすべて時間との競争。
 食事準備は、穀粉・鶏・豚・野菜から。時には牛まで眉間に一発し、なつめ等の果樹は持主の農民に木を伐り倒させて「アイヤーアイヤー!!」の悲鳴に耳をふさぎ、心を鬼にしてこちらも必死の行動重労働だ。燃料には農具の柄・建具・畜舎を手当り次第、乾いた木燃える物を焚いての炊事。手間取っていては、敵軍の逆包囲を受けて全滅か、悲惨な敗走に陥入りかねない。村長等には住民を人質に物資の提供を強要して、代価はこちらの自由の「バイキング」。
 殺人暴行略奪等の殆んどは我れ生き残る為の自衛手段で、善良な兵が鬼畜になる戦いの必要悪、無謀な戦争指導に罪あり。捕虜取扱いの国際条約の説明教育等は一切無く、条約そのものの存在も戦後初めて知った。「我は生きて虜の恥を受けず」自決し、敵は殺すのが日常の行動。
新聞雑誌等の記事と実情との違い
 日本軍の勢力範囲を真紅、中国のそれを黄で描いたとすれば、実情は桃色の中の都市と鉄道の点と線のみ。北京、天津、済南、青島等、日本軍駐兵の市街の城壁の一歩外は、オール八路軍が制圧の勢力範囲。日本軍兵舎は、旧中国の兵営官公舎学校、欧米キリスト教団、赤十字等が寄贈の病院等を接収したもの。うらみを買うだけが聖戦の実態。
憲兵警察―弾圧
 四四年六月討伐先でマラリヤを発病し、済南陸軍病院に無意識のまま送り込まれ、高熱から正気に戻ってみると、隣のベッドの、青黒くやせ細った長身の兵の名札に、陸軍二等兵伊東正義とある。東条総理に睨まれた農林省の実力課長で、大蔵省の大平正芳氏と共に北京興亜院に左遷されていた旧知の人で、更に一兵卒として死地の前線に追われた姿。
 栄養高い食品やインテリ好みの本を天津の妻に沢山送らせ、軍医、看護婦、衛生兵に事情を話して看護を頼み、戦後故国で再会して、命の恩人と迄言われ、終生同志として御交誼を賜り、今日までも東京の世田谷の輝子未亡人に御交際文通を戴いている。
共産第八路軍
 国民党蒋介石と共産党毛沢東主席の国共合作で編成された第八路軍が共産党の主兵力で、毛主席が発令した三大規律、八項注意の軍規軍律を一貫して全軍が厳守し、有名な持久戦論に基いて、一九三八年発表以来長期最終中国の勝利、日本帝国主義侵略軍の全面敗退、確信の政戦指導の前に、日本はアメリカに負ける前に中華人民共和国に完敗していた。
特攻隊へ
 一九四五年四月、現役軍曹の事故の身代りに、大隊本部情報係下士官、在張店旅団司令部在勤の身から、後備兵役老兵の私が、現役兵で銃剣術、射撃、行軍の一技に秀でた精鋭二十名を引率して、第四十三軍司令部へ急行した。
 軍司令官細川中将は米軍の青島上陸に備えて三千人の直轄特攻挺身隊を編成し、上陸米軍軍司令官に有無を問わぬ斬込み、玉砕必至の死場所を得る作戦を立てた。まず尽忠・護国・菊水の三隊で千名が編成され、全員が二十五歳迄の現役兵中、私が一人後備役の最年長。北支軍から六月、五十九師団を含む四個師団がソ連参戦に備えて関東軍が北満、北朝鮮に転出したための抽出だったのだが、母師団を失ってあとの二千名は編成不能に終った。我々千名は改めて遺書を認ため、爪と髪を合せて天津の妻に届けた。後日六月、五十九師団は北朝鮮に移動して八月ソ連に連行され、私は四六年三月帰国するを得た。軍隊は運隊。
敗戦以後
 支那派遣軍総司令官岡村寧次大将は、保身して蒋介石国民政府に降伏し、蒋軍何応釣司令の命令で、我々日本軍は武装を解かず、総攻撃の八路軍の迎撃を命ぜられ、連日死闘を強制されて、九月末迄の一か月半に、過去半年間に並ぶ死傷者を出したのは痛恨の極み。
 陸相就任のため帰国の下村定北支軍司令官は帰国に先立ち、「現地応召者を召集解除する。各方面別部隊を編成して出征地毎に流れ解散」の秘密命令を発した。ところがその命令はなぜか九月末まで伏せられていたので、私が天津の自宅に生還を得たのは十月上旬だった。
我が青春の古戦場
 中国人は殺され、焼かれ、奪われて泣き、その数二千万人?。戦友は出征以来故国を見ず、邦人は敵中に棄民、百日かかって生還を得た。何と罪深きことか。








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