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3 開戦・死闘・引揚げ
メリーさんへの手紙
田和 久美(たわくみ 一九二七年生)
 
 六十年ぶりに心の奥深く封じ込めていた思いを、貴女に書き伝える決心をしました。でも思いが溢れて、いざ何を書き何をお話ししてよいのか、胸がいっぱいになり、ペンが走りません。
 昭和十四年、十五年、十六年(一九三九、四〇、四一)の三年間、私と貴女は毎日のようにアメリカ人と日本人と言う意識をこえて、私はメリーさんに妹の様な気持ちで接していました。昭和十四年、関西のY市に宣教師として、メリーさん一家は私宅の隣りに越していらっしゃいました。素敵な御両親様とひとりっ子の貴女、長い金髪をなびかせて。私は羨ましく眺めていました。
 御両親様はとても親日家で、早く日本にとけこもうとなさる様子がいつも感じられました。鉄の大きな門の外の木の板に片仮名で“ツリー・メイン“と書かれていました。お母様はお花の大好きな優しい静かな方で、何時も笑みをたたえて私に「よろしくね」とおっしゃっていました。貴女は見事なくらい上手に日本語を覚えて、おままごとをするのに「お店しましようか」と独得のアクセントで毎日遊びにいらっしゃいましたね。六十年経った今でも私の脳裡には、あの言葉と共に綺麗な金髪とみどりがかったグレーの目がはっきり残っています。
 忘れる事の出来ない事件が起りました。昭和十六年十二月八日朝、私は女学校の校舎と校舎の渡り廊下を歩いている時、突然「今未明、ハワイ真珠湾沖にて、彼の国と我が国は戦闘態勢に入れり。」と学校中響き渡る様な発表がありました。でも不思議にその時はメリーさん一家がアメリカ人と言う意識の特になかった私は、貴女達の事は、すぐにどうなるのだろうなどと言う心配はしませんでした。
 夕方家につくと、ねえやさんが「憲兵隊の人が、いとうはんを待ってはります」と緊張した顔で言いますと同時に、多勢の憲兵に私は取りかこまれていました。隣の鍵か何かメモの様なものを預かっていないかとの問いかけに、その時始めて、何か大変な事になっているのかと、やはり普通でないものを感じました。私の帰宅の前に母や女中たちに色々聞いたそうですが、一番親しい私に何か託しているかも知れないと言う事だったのでしょうか……。
 何も預かっていないし、珍しくここ二、三日メリーさんと会っていないと答えると、「窓をこわすしかないなぁー」と一人の憲兵が言ったので、咄嗟に私も行きますと言いました。案内係と言うか囮と言うか私を連れていきました。「どうぞメリーさん一家は逃げていて下さい。神様お願いします。」と一人心の中で祈っていました。窓をこわす音を一方で聞きながら、メリーちゃん、メリーちゃんと大きい声で呼びましたが、しかし中からは何の音もなく、し一んと静まりかえり、かえって不気味で足が震えました。あたりはもう夕闇に包まれ始めて、もし中に御両親とメリーさんが何処かにかくれていたなら、私はきっときっと「メリーさんだけでも助けてー」と、抱きしめたと思います。本当に今でもその時の気持ちは、はっきりと思い出せます。
 部屋に入った途端、私は驚愕しました。泥棒が入ってもこれ程……、足の踏場もない位と言うのがこれかと思う位、引き出しから物が出され、キッチンには食べかけたものが残され、ついさっきまで使用していただろうフォーク、ナイフが乱雑に流しにおかれていました。
 本国からの帰国せよとの知らせに、如何に慌てて必要なものだけトランクにつめて、帰る事のない日を、どんな思いで家をあとになさったのかと思いますと、涙が出て止まりませんでした。メリーさん、一目お別れの前にお会いしたかった。でもそれは無理ですよね。逆の立場を考えると、私も顔を浮べながらも、いえそんな余裕さえなかったかも……。
 一方で私は三人がいらっしゃらない事が分ると、本当にほっとしました。本国からの誰かの手引きがあって、夜中に神戸から船で帰国したのでしょうか。メリーさん、貴女の一生の間でも、あんな衝撃的な思い出は子供心にも辛く悲しく残っているでしょうね。
 メリーさん一家のいらっしゃらないのが分っても憲兵たちはなお、執ように手紙や書類の入っていそうな処を探していました。当時、お父様がタイプライターを打っていらしたお部屋は、特に入念に探していました。
 私は皆がそちらに気をとられている間に、ふっと二人でよく隠れた部屋、いいえシャワー室の横のあの小さいすき間に入って行きました。いつもメリーさんは私があげた桜貝のかけらやら、しおりなど、大事にそこの引出しにいれてくれていましたので、狭い所を身体を曲げながら中に入って引出しをあけました。桜貝も、しおりもありません。そこには貴女が時々つけて居た白いスカートが折りたたんでありました。そっとそれを出してみるとポケットにごわごわとした紙切れがあり、それを読んだ時私の胸は張りさけそうになり、メリーちゃん、メリーちゃんと叫びそうになりました。
 ただならぬ顔色に気付いた一人の憲兵が私の手をつかみ、手のひらを無理に広げました。そこには「クミ、チ、バラ 12―6」と書かれてました。おそらくクミチャンと書くつもりがチャンがむつかしくて書けなかったのだと思います。バラは、ローズではなくはっきりと片仮名でした。
 これには何か暗号の意味があるのではないかとずい分聞かれ、十四歳の私は声をあげて泣きました。バラは暗号でもなんでもありません。隣り合った塀に黄色のつるバラを這わせていたので、私宅の方にもこのつるバラが来る様に、いつもバラ頂戴ね、と言っていたのです。メリーさんそれが私に対するお別れのメッセージだったのですね。ありがとう。12―6は貴女の字ではありません。お父様かお母様が、おそらく急いで最後に12―6と書いて、御両親様もお別れを言って下さったと解釈しています。
 十二月六日、夜更けにメリーさん一家はこの家を、この日本を発っていかれたのですね。そうすると、大本営発表で真珠湾を奇襲と言ってますが、トラトラトラの暗号はすでにアメリカでは解読されていて、十二月八日攻めて来る事は分っていて帰国通知があったのですね。
 戦争とは悲惨なものであり、何もかも破壊して了います。しかし個人の心の結びつきは、どんな事があろうとも変りません。今でも御両親様やメリーさん、貴女達は私の心の中に懐かしく美しい思い出として残っています。私の兄も当時東京大学の学生で、学徒として出陣して行きましたが、幹部候補生の試験は頑として受けませんでした。なぜならば、自分達が軍の幹部となり、これ以上日本と言う国を間違った方向へ舵取りをしてはならぬと言う思いで、受けない事がせめてもの抵抗だったようです。
 満州国独立のためと言う間違った大義名分を振りかざし、国際連盟を脱退した時代から、徐々に、徐々に日本はシビリアン・コントロールのきかない国になりつつある、このままではとんでもない方向に向うと、軍隊にかり立てられながらも、ささやかな抵抗をして来た私の兄のような日本人もいた事を、貴女に知ってもらいたいのです。その頃少女の私は確たる思想も信念も持たず、一方で兄達の言葉に耳を傾け、現実には大本営発表などと言うものを信じ、その狭間でゆらいでいる毎日でした。もうこんなに歳月が経ってしまいましたが、共有したあの三年間、二人だけの時間、会話、楽しみ、そしてあまりにも幼い貴女にとって辛く過酷な十二月六日、この六十年間あの日の事、あの時代の事を忘れた事はありません。神様どうぞ二人が元気な中に、もう一度、メリーさんに会わせて下さいと祈りつつペンを置きます。








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