日本財団 図書館


「もく星号の真実(21)」  市川 武男
 
 もく星号が事故当日にどの様な上昇経路を飛行したかについては、離陸前に与えられたIFRクリアランスから判断する限りでは、当然A3航空路のオンコース上昇を行ったと推定される。
 一般に各飛行場でのIFR出発経路は、出発機の便宜と周辺IFR交通の状況等によって飛行方向でのオンコース上昇、上空通過機を回避するためのリバーサル上昇、もしくは近隣の無線標識等を利用した迂回経路等が設定されるが、当時の羽田飛行場でも当然このようなIFR経路が設定されていた筈で、昭和29年頃の資料によれば、南側空域への経路としてベイポイント経路、羽田NDBを利用したリバーサル経路、また羽田NDBの百度方向への迂回経路として千葉出発経路等が設定されているので、もし27年頃も同様の経路が使用されておれば、木星号も当然この中のベイポイント経由と同じ経路をとったのではなかろうか。
 併しここで注目したいのはマーチン機の特色であったDC4よりも速いと言われた高速性能である。特に前年の10月25日にマーチン機が初めて東京大阪間を飛行した時には、木星号と同じ経路でXA間を僅か12分で飛行している。所が木星号の場合は日航の傍受記録で見ても、同じ12分の時間でやっとPQ上空に達したに過ぎない。勿論これは当日の気象状況に左右される事なので単純比較は出来ないが、何れにしてもこの事故当日の東寄りの向い風が如何に強いものであったかを知り得る手掛りとなる。
 当日の気象状況については、先に御紹介した天気図の通りであり、ほぼ伊豆大島近辺に強い低気圧帯の中心が渦巻いていたのである。
 他方地上の管制員は手作業による航法計算盤で算出した予想時刻に基いて管制を行ってはいるものの、このような強い上層風の中では、それ等の予想時刻を次々と大きく修正せねばならない状況にあったとも考えられ、大きな負担となっていたのではなかろうか。
 しかも先に述べたように当時羽田周辺には10機前後のIFR交通があったと言われているが、これは全て日航の同一チャネルでの傍受記録に基づく情報である事を考えれば、当然この10機というIFR交通は同一の管轄空域内という事になるので、或は東京レーダー空域の中で羽田を含む空域を担当していた管制員の担当空域にあったとも推測され、しかもこの朝の時間帯は東京レーダー空域でのコリアン・エアリフトを中心とするラッシュ時間帯でもあったという情報と合せて考えれば益々大変な交通状況下にあったという事になる。
 しかもこれも先に述べた様に、当時の東京レーダーのレーダー性能から考えて、この木更津以南の航空機、特に木星号の様に低高度を飛行する航空機のレーダー捕促は不可能であった訳で、この様な最悪の状況の中で管轄空域内の交通を把握しどの航空機をどの時点でどこまで上昇下降させるかを即断せねばならなかった担当管制員の精神的重圧は大変なものであったに違いない。
 羽田を離陸した木星号はクリアランスで指示された通りA3航空路上を二千FTまで上昇したが指示通り二千を10分間保持すると7時53分まで飛行する訳で、マーチンの高速ではPQを通過するかも知れず、機長は当然更なる上昇を東京レーダーに求めたに違いない。
 所でこの10分間という時間は、航空管制で使用される安全間隔の一つである縦間隔の中の一つの基準数値であって、その時の交通状況に応じて5分とか3分とか細かく規定されている。
 先にも御紹介した通り当時のアメリカでのATC基準はANC基準(ANC/PCAT)でありこれは文字通りANC共通の統一基準なので或は逆にこの規定で定める10分間の基準を細かく分折すれば、多少なりとも当時の交通状況の推定が可能と考えられ、改めて当時のANC基準を調べて行くうちに、ある事に気付いた。
(つづく)








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION