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一席入選論文
都市型コミュニティと観光地形成
―奈良町観光を事例として―
上田 恵美子
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1. はじめに
 奈良県には数多くの歴史的遺産が点在し、近年はそのうちのいくつかが世界遺産として承認され、国際的にもその価値が認められるようになった。それにもかかわらず、ここ10年間の奈良県の観光入込み客数は緩やかに減少している。国内観光における古都観光ブームは一段落したとも言われ、奈良はグルメや温泉といった流行にもうまく対応できずに現在に至っている。
 奈良の観光産業は“大仏商法”と揶揄されてきた。これはあまりにも偉大な歴史的遺産の魅力に依存し、観光者に対する経営努力を怠ってきたという意味で使われている。これまで遠方からの観光者の多くが京都や大阪に宿泊して、奈良は日帰りという旅程を選択してきた。奈良にはすぐれた歴史的遺産があり昼間の観光を楽しむことはできるが、夕方以降の食事や宿泊は楽しめる魅力がないということである。確かに、食においてはカニや高級和牛の肉といった食材の特産品が見当たらず、また京料理のようなはなやかな食文化もない。大阪や京都のような娯楽施設の集積が少なく、温泉はあるが小規模で、古都観光とうまくリンクされておらず利用しにくい。しかしこれは、観光産業という切り口からの奈良と大阪・京都との表面的な比較でしかなく、本質的な問題は別にあるのではないか。
 「京都市や金沢市は文化都市だが、奈良市は歴史都市であっても、文化都市ではない。奈良市には古代の文化財はあるが、現代の文化が豊富に存在しない」*1という宮本氏の指摘がある。「奈良市にきても、古代の遺跡をみるにとどまる。これは古代で文化がきれてしまっているからである。」実際、これまでの奈良県や奈良市の行政施策は、歴史的遺産の保護とアピールに重点がおかれ、こうした資産とまちそのもののアメニティとの調和については疑問とされる点が多かった。観光者にとって奈良は地域文化が感じられない地方都市であり、偉大な歴史的遺産を中心とした観光地以外での都市の散策や交流といった行動をとるには値しないと判断されてきた。したがって、宿泊や食事場所の選択地が他の地域に流れてしまうのは、"大仏商法"のためだけではない。都市全体の魅力を生かしていないために、経営努力を重ねている一部の観光産業までも観光者に評価されない結果につながってきたのではないか。
*1 宮本憲一「都市文化とアメニティ」(森啓編著「市民文化と文化行政」学陽書房、1988年)、18頁。
 1980年代後半から、奈良市の都市計画や奈良観光に対する意識の変化が見られた。これまでの神社仏閣を中心としたインフラ整備から、残存する町家等の歴史的建築物の保存を中心に地域を対象に整備を行う、つまり点から面へと対象を広げ、散策型の観光のあり方が模索されるようになった。こうして新たな観光地として観光者が訪れるようになったのが、奈良町と呼ばれる一帯である。
 しかし、奈良町の特色は行政の街並み保存活動によるものではない。むしろ、行政に対して保存を提言してきたNPOの活動や伝統的な自治組織によるところが大きい。継承されてきた伝統的な地域共同体がNPO等の新しい活動を受け入れることにより、都市型コミュニティが形成され、これを基盤として文化観光施設や商業集積が成立し、地域の観光魅力となっている。以下、都市型コミュニティとしての奈良町の成立と観光地への発展の過程を追い、奈良町の店舗に対して行った質問紙による調査をもとに観光地としての特徴を検証する。これにより、コミュニティを基盤とした新しい観光地について考察を行う。
2. 奈良町の生成と現在のにぎわい
2-1 奈良町の生成
[1] 奈良町の位置
 奈良町という行政区画は現在は存在しない。近年奈良町として親しまれているのは、近鉄奈良駅から南下し、猿沢池のあたりから元興寺を中心とした一帯である*2。これは奈良市によって都市景観形成地区として指定を受け、“ならまち”*3として街並み保全が進められてきた地域とほぼ一致し、現在この一帯が奈良町と呼ばれている。
*2 奈良町の範囲について、現在広義と狭義が存在し、実際には非常にあいまいな状況となっている。「奈良町」という行政区画範囲は明治31年の奈良市制の施行とともに消滅し、現在は存在しない。このため奈良町という呼称に対する人々の愛着は昔に比べれば薄れてしまったが、広義にはこの市制施行以前の旧市街地全体をさす。

*3 古くから伝わる地名の“奈良町”に対して、奈良市は施策として「ならまち」の通称をピーアールに用いている。
[2] 奈良町のはじまりと衰退
 平城京遷都(710)が都市としての奈良のはじまりである*4。奈良町は平城京の外京にあたる。都が移ったあと、「南都」と呼ばれる宗教都市として発展し、寺社支配「郷」がうまれた。1180年、朝廷軍により門前郷を含む南都の大半は焼き尽くされ、現奈良町の中心にある元興寺は北半分を失って「郷」化した。その後、領主支配は徐々に崩れ、門前郷および市は消滅し郷民は町人化し、「惣町」組織により自治の気運が高まっていった。奈良町は宗教都市から商業都市へと変貌していった。
*4 近世までの歴史については、永島福太郎「奈良」吉川弘文館、1996年、参照。
 江戸期に入り、幕府により奈良特産の晒布の製造・販売は特権を与えられ、これにより、奈良町は奈良晒によって最盛期を迎えた。しかし、江戸中期には翳りが見られるようになる。ちょうどこの頃から、奈良見物が盛んになり、次第に観光都市としての様相を帯びてきた。また、奈良町は、初瀬、伊勢への主要幹線が南北に縦断し、その沿道は旅籠や遊郭でにぎわった。
 明治から大正にかけて、奈良町は歓楽街としてにぎわった。大正13年、大阪と奈良を結ぶ大阪電気軌道が開通し、好景気を背景に修学旅行や団体見物客が奈良に殺到するようになった。しかし、この鉄道敷設によって、人の流れは現在の中心市街地である東向通りや三条通りへと移っていった。
 戦後、奈良市の旧市街地は、戦災をまぬがれたことから昔の街並みを残す地域となった。駅を中心とした三条通りや東向き通りは経済復興が進んだが、駅から離れた旧街道沿いの商業のにぎわいはほとんど無くなってしまった。昭和40年代後半、流通業の大型店の進出による地域の商店街の斜陽化がはじまり、50年代には市庁舎の奈良町からの転出が追い打ちとなった。まちの衰退とともに人口の高齢化が進行し、空き家が目立つようになり、一部の民家が取り壊されて駐車場やマンションあるいは新しい様式の建物など歴史的景観を考慮しない建物が造られるようになった。

[3] NPOの活動のはじまり
 戦後の住宅地の開発は奈良市西部に集中したため、奈良町は開発から取り残されていた。1975年、奈良市は国道169号線とJR奈良駅前をつなぐ都市計画道路杉ヶ町高畑線事業に着手した。この計画は道路の拡幅によって奈良町を分断するものであった。
 この計画に危機感をもった市民が1979年、木原勝彬氏を中心に奈良地域社会研究会を設立した。この設立の目的は、どうずれば地域の変容をくい止め、地域の特性を活かした歴史的環境豊かなまちづくりが可能なのか、そのためにはどういったデザインで、どういった素材を使い、どういった植栽を施せば地域になじむ道路ができるのか、および住民の協定による街並みの形成について研究することにあった。活動の主旨は奈良市の計画に対する反対運動ではなく、地域の歴史的環境を保全できるより質の高い道路づくりにあった。
 その後奈良地域社会研究会は、1984年社団法人奈良まちづくりセンターとして再出発した。このNPOの活動により奈良町ははじめて他からの流れを受け入れ、まちの再編を経験していくことになった。

[4] 奈良市の街並み整備事業
 1989年、奈良市は市制100周年事業の一環として世界建築博覧会の企画を公表し、この第2会場として奈良町を予定した。このころから奈良市による奈良町の街並み整備事業が本格的に進み出し、空き家の改修や空き地への施設建設が進捗を見せた。1990年には、奈良市都市景観条例により町家を多く残す地域一帯が奈良町都市景観形成地区に指定され、奈良町の文化遺産を守る気運が高まった。(資料1参照)
 同時期に、奈良まちづくりセンターはまちづくりについての素案を市長に提出し賛同を得て、構想策定のための調査研究を実施、1989年に「奈良町博物館都市構想」をまとめあげた。「奈良町博物館都市構想」は地域全体が歴史生活博物館(リビング・ミュージアム)という考え方でまちづくりを行うものである。この構想をもとに、1992年、奈良市は奈良町の活性化にむけた方針として「ならまち賑わい構想」を公表した*5
*5 奈良市「ならまち賑わい構想」1992年、15-17頁。
資料1 奈良町都市景観形成地区指定区域
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 資料:奈良市「奈良町都市景観形成地区のあらましについて」
 
図1 ならまち賑わい構想の概念
 
ならまち賑わい構想の基本的な視点
 市民主体のまちづくり
 歴史、文化、伝統を後世に活かす
 総合的・長期的なまちづくり
 未来の視点に立った新たなならまちの創造
 
まちづくりの基本方針
 [1]住環境の整備
 [2]新しい文化の創造
 [3]観光振興と地域産業活性化
出典:奈良市「ならまち賑わい構想」1997年
 
 この構想の具現化に向けて、奈良市写真美術館、ならまち格子の家、資料保存館などの展示型公共施設の建設が計画された。また、展示型施設の管理運営やイベント企画、まちづくり調査研究など、ソフト面を担当する組織として財団法人ならまち振興財団が1992年に設立された。ならまち振興財団は奈良市の出資100%で設立されたが、理事には一般民間人も登用されている。
 以上、奈良町における理念が、NPOと行政のパートナーシップによって形成された。街並み整備の成果としての観光振興のみを重視するのではなく、生活者の存在も重視したリビング・ミュージアムという考えを基調にした新しいまちづくりがはじまった。

[5] 現在の奈良町
 奈良市は街並みにふさわしい道路や街灯、案内標識などの整備を行うとともに、民間の所有する建物に対しても修理・修景への助成制度を設けて、街並み形成を支援している。街並みに対する住民の理解は徐々に得られるようになると同時に、まちに対する誇りが醸成されていったといえよう。このことは後述する都市型コミュニティ形成に大きく寄与した。
 また、一部の土地や町家は奈良市に買い上げられ、新たな展示・見学施設が建設された*6。奈良町の中には歴史的資産として文化財指定をうけている町家や*7、町家以外にも貴重な歴史的資産が点在する*8。民間の展示・見学施設等も開設されていて、奈良町散策の拠点となっている。
*6 ならまち格子の家、ならまち振興館、奈良市写真美術館、奈良市音声館、奈良市伝統工芸館、奈良市歴史資料館、奈良市書道美術館がある

*7 国の重要文化財の藤岡家、県指定文化財の細川家、市指定文化財の好田家。

*8 世界遺産に登録された元興寺、国の重要文化財の今西家書院、国の名勝大乗院庭園など。
 実際の賑わいは、まちなかの店舗によるところも大きい。この店舗は倉敷や長浜等に見られるように、密接して商業地域を形成しているわけではないが、奈良町という面で見たとき、あきらかに商業集積を形成していると考えられる。この店舗の特色については4章で述べる。
図2「ならまち格子の家」年間訪問客数の推移
資料:ならまち振興財団資料より作成
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 奈良町への入込み客数の推移についての正確な統計はないが、「ならまち格子の家」の統計を参考に推測することができる。ただし、「ならまち格子の家」は奈良町のなかでも駅からは遠い南側に位置すること、「ならまち格子の家」は博物館的な性質が強いのでリピーターが少ないであろうことから、実数はこの数値を上回ると考えてよいであろう。
3. 奈良町のコミュニティとその活動
3-1 奈良町のコミュニティ
[1] 都市型の「コミュニティ」の形成
 「コミュニティ」について考察するにあたって、この分野の研究蓄積が多い社会学から援用したい。「コミュニティ」については諸説が見られ、多くの研究者によって支持されるといった定義もなく、また、時代と共に変化する概念でもある。ここでは特に現代におけるコミュニティの概念を奥田道大氏の「コミュニティ」モデルからとりあげる*9
*9 奥田道大「都市型社会のコミュニティ」勁草書房、1997年、13-16頁。
図3 コミュニティ・モデルの構成
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出典:奥田道大「都市型社会のコミュニティ」1997年,13ページ
 奥田氏は、コミュニティを地域性と普遍性という二つの軸によって規定する。A「地域共同体」は伝統型地方都市や大都市旧市街地に有力なモデルであり、「都市の中のムラ」ともいえるような、まとまりのよい内部集団・社会であるが、その一方で外部には閉鎖的、排他的に映る。ここでは町内会が機能し、居住年数が短い人々は「来訪者」「よそもの」である。B「伝統型アノミー」は、「「地域共同体」が解体して現実的有効性を失いつつも、「地域共同体」に代わるモデルが未だ見出せない過渡的な状態」にあり、人々の地域への帰属感は希薄である。C「個我」はA「地域共同体」とは逆に、地域への帰属を意識せず、「生活感覚、権利感覚を市民意識と名づけて」いる状態を表す。組織形態は町内会ではなく、クラブ、サークル型である。D「コミュニティ」はA「地域共同体」よりも「開かれたもの」「つくるもの」のイメージが強くなる。住民要求は、「個別としての要求の「もの」化だけでなく、「もの」が人間関係も含め地域生活全体の豊かさにどうつながったかという、地域生活全体の財=ストックになりえたかが問われる」ものとなる。
 また、奥田氏によれば、「さまざまの意味での異質・多様なるものと相互に折り合いながらともに築いて新しい共同生活の規範・スタイルが、コミュニティの内実」であり、「この新しい共同生活の規範・スタイルには、その都市なり地域が歴史的ストックとして内蔵している資質、条件が、現代的に発見され解読される」としている*10。「都市的」について、「[1]何かの縁で、背景を異にする人びとが同じ場所に集まり住む、[2]その場所に馴染む共同生活の暗黙のルール、エチケットを見出す、[3]共同生活の運営、人びとの行動振る舞いが洗練、あか抜けしていること」という意がそこには含まれている*11
*10 奥田道大、前掲書、158頁。

*11 奥田道大、前掲書、159頁。
 
 以上が奥田氏のコミュニティ論である。時代の変遷による地域共同体の崩壊からコミュニティの形成に至る過程でわかるように、戦後に形成された「都市の中のムラ」と呼ばれる社会と「コミュニティ」社会とは本質が異なり、区別して扱われものである。町内会組織を中心とした結束が固い、しかし個が統制を受ける社会から、外部からの普遍性を受け入れつつも、洗練された方法で地域性が維持される地域社会へと変化したとき都市に「コミュニティ」が成立する。そこには新たなクリエイティビティが備わっているのである。

[2] 奈良町の「コミュニティ」
 奈良町の生成について前章で見たが、奈良町の都市整備事業は他の地域より遅れてはじまり、他の地域では崩壊しつつあった伝統的な町内会組織が依然として機能していた。この当時の奈良町は典型的なA「地域共同体」型であったといえる。1970年代にNPOが歴史的建築物の価値についてアピールし始め、奈良町の地域社会ははじめて他所からの新しい価値観を受け入れた。これに対してもちろん摩擦がなかったわけではないが、結果的に街並み保存という新しい普遍的な価値概念を受け入れていくことになる。この概念が地域社会に浸透していくことが、奈良町における現代的な「コミュニティ」形成の始発点であった。
 奈良町は、他の地域に見られるようなマンションや駐車場といった新住民のための大規模開発が制限されてきたこと、したがって町内会が依然として機能し続けたことから、B「伝統型アノミー」、C「個我」の状態は明確ではなかったが、D「コミュニティ」へと位相することになった。
 現在においても、奈良町では多くの町内会組織が機能しており、地域性が維持されている*12。他方で、まちの中には次節で見るような非営利組織が形成され、地域外からの来訪者を交えて、町内の範囲を超えた横断的な活動が行われている。また、地域外からの奈良町での開業も徐々に増えている。その結果、地域性が維持されつつも、外部から来訪者を受け入れることによる新しい規範が登場し、「歴史的ストックとして内蔵している資質、条件が、現代的に発見され解読される」という活動が展開されている。
*12 この論拠として、奈良町において一部の町内には庚申講が残っていることがあげられる。現在においても統制のとれた町内単位での行事や活動が見られる。
3-2 奈良町の活動主体の分類
 奈良町での活動の主体は以下の3つに分類される。
 1.〈観光産業〉店舗、見学施設等
 2.〈非営利組織〉(社)奈良まちづくりセンター、奈良町座、(特)サンガ俥座、(有)俥座地域研究所、(財)ならまち振興財団、(特)NPO政策研究所、なら・町家研究会、奈良コミュニティFM研究会
 3.〈行政〉奈良市
 奈良町では、前述のような経緯のもと、多彩なまちづくり団体が誕生し、さまざまなアプローチによってまちづくりを行っている。また、店舗の経営者が非営利組織のリーダーであったり、行政関係者が非営利組織の会員であったりと、実際は主体間で重複した人材が活動している。

3-3 創造志向型の活動
 奈良町は奈良市の条例により景観形成地区に指定されたが、その理念は有形・無形の伝統的資産を静態的に保存しようとするものではない。伝統的資産を継承しつつもある部分は現代生活を取り入れ、その両者を融合させて新しいものを構築しようとする動態的な保存である。したがってこの融合にはある種の工夫が必要とされ、本稿ではこれを創造志向型の活動と呼ぶ。
 この活動は以下の3つに分類される。
 1. 店舗および見学施設の営業
 2. 町家を利用した新しい試み 博物館、展示会、コンサート、講演会、フリーマーケット、コミュニティFM局等に利用
 3. 町ぐるみのイベント ならまちわらべうたフェスタ、スタンプラリー、薪能等
 以上の活動を通じて奈良町の伝統が継承されるとともに、現代的な創作的活動が展開され、観光者を楽しませる観光対象を構成している。
 これまでの奈良観光は偉大な価値をもつ歴史的遺産を観光対象とすることのみに終始して、現代の奈良の文化を観光対象として呈示することはなかった。奈良町の活動は、伝統的遺産を動態的に保存することによって、新たな奈良観光の可能性を開拓している。
表1 奈良町の主な非営利組織
(社)奈良まちづくりセンター 街並み保存運動から出発し、行政に対し企画提案を行ってきた。奈良町の街並み保全が一段落した現在、奈良県下の街並み保全運動や県内外のNPO組織との交流、個別の町家のカウンセリング、児童対象の文庫活動等を展開している。
奈良町座 1990年設立。奈良町に住んでいる人や奈良町で働いている人、奈良町に思いを寄せている人ら29人で構成される。主な活動は毎月の定例会と、御霊神社のお渡りへの参加、わらべうたフェスタヘの参加、奈良町寄席への協力など。
(有)俥座
地域研究所
1987年に木原氏が設立した。有限会社地域経営研究所を改称し、1997年再設立。メンバーは3人。地域活性化のためのまちづくり会社。ならまちセンター(奈良市の文化施設)での喫茶店の運営を行っている。
(特)サンガ俥座 俥座より分離独立し、現在国土交通省より委託された社会実験パークアンドバイスクールライドの運営を行っている。
奈良コミュニティ
FM研究会
オリエント館を拠点にコミュニティFMの企画放送を実施。地域内外の多くの若手ボランティアが参加している。
なら・町家研究会 町家について学術的に研究するボランティア研究会。
(特)NPO政策研究所 1997年木原氏が設立。NPOやNPOセクター発展・強化のためのNPOに関わる政策の研究、およびNPO活動に連動する公共政策の研究と実現を目的とする。役員および会員は、NPO活動家、公務員、会社員、研究者など。
出所:ヒアリング調査および、奈良まちづくりセンター「地域創造35号」1998年、NPO政策研究所・奈良まちづくりセンター・奈良町・コミュニティ研究会「コミュニティ総合政策研究〜奈良町・コミュニティ総合政策第1次研究」NPO政策研究所1998年。








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