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私が医療の世界に関わるようになったきっかけは、私自身の患者体験です。患者は人間扱いされていないのでないかという疑問を持ち、医療についての学習会に参加するようになりました。これが30代の半ば過ぎ、今からおよそ20年前でした。年齢ばれてしまいますが。そのころ有吉佐和子さんの著書『複合汚染』に触発されて、公害や添加物について、関心を持っていたこともベースにありまして、また母親として子供の命を考える機会も多くありました。ちょうど体調不良が続いておりましたので、老いと死が私自身のテーマになっており、月に1度の学習会はとても楽しみでした。そのころ、学習会の講演をまとめて出版することになり、何名かのボランティアがテープ起こしに携わりましたが、私が担当したのが、何と日野原 重明先生でした。本日のご講演でもお分かりのように、日野原先生のお話は柔らかな口調でとても分かりやすいのですが、何しろ医療用語に不慣れなころでしたので、それこそテープがすり減るほど繰り返して原稿を作りました。その後はラジオ番組を途中から聞いても、お声だけで日野原先生だと分かるようになりました。

その後、さまざまな紆余曲折を経て、ホスピスを併設する病院建設が決定し、建設準備委員会が作られたのが、1987年ごろだったと思います。先ほど先生方のお話にもありましたが、当時は聖隷三方原病院と淀川キリスト教病院のホスピスが知られているぐらいで、経験者はだれもいません。建設準備委員会の中に、ホスピス研究会を作って学習していくことになり、黒子役として私がコーディネーターに命ぜられました。その間、婦長予定者が淀川キリスト教病院ホスピスで、私が聖隷三方原ホスピスで研修を受けました。後で知ったことですが、この三方原の病院のホスピスでの研修に耐えられたならば、磯崎を現場に入れようと上層部は考えていたようです。

その発想というのは、医療の現場で患者さんの本音を一番つかんでいるのは、お掃除のおばさんであるという説がありますね。ならば、ホスピスは生活の場ですから、そこに主婦としての感覚で患者さんご家族のQOLの向上に役立つ立場として、仕事ができるのではないかという発想だったようです。当時の医院長の英断だったと思います。私としましては、最初に申し上げたように、患者さんて何なんだろう、人間として扱われているのだろうかという疑問を持っておりましたので、少しでもお役に立てるのではないかと思って、1989年、ホスピスの開設と同時に現場に入ることにしました。知り合いの医療関係者からは、医療の世界を甘く見るなというお叱りを受けることが度々ありましたが、患者さんご家族の生の声に支えられつつ、初代の婦長と本音で語り合い、ぶつかり合い、理解し合えたこと、また励ましてくださる先生方や同僚の存在があることで、今日まで仕事が続けられています。このような経緯で人の出会いの不思議さをつくづくと思うわけです。ちょっと長くなりました。

 

松島:ありがとうございました。磯崎さんはソーシャルワーカーということで、皆さまの中にも今日、ソーシャルワーカーの方もおられるかもしれませんが、ソーシャルワーカーというお仕事のご紹介や、またその立場から医療へのいろんなご発言もいただけるものと思います。それでは吉田さん、よろしくお願いいたします。

 

 

 

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