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私はそう特別な大事業はしなかったし、子育てでも成功したとはいえなかったけれども、とにかく精一杯やったんだよ」というような気持ちを持って樹の梢を離れることができれば、それを聞いた子どもたちは、意味がある生きかたというのはどういうことなのかということを考えるのではないでしょうか。『葉っぱのフレディ』の中で、ダニエルとフレディとが交わす会話が、日本の家庭の親子あるいはおじいさんやおばあさんとの間になくなってしまっているのではないでしょうか。

20世紀は6千600万人もの人が戦死したり、虐殺されました。私は10日前にドイツから帰りました。ベルリンでは東西の壁のところにつくられた記念館に行ってきました。東西の冷戦の時代には、東から西に逃げた人が発見されると殺される。フォルクスワーゲンという車にはエンジンが後ろにあって、前のボンネットに荷物が入れられるようになっています。そこに子どもや女性が隠れて逃亡を図る。それを東側の検問では槍のようなもので閉まっているボンネットの上から突き刺して調べた。その槍の跡がついた車が展示されていました。この地球上の人間の世界というのは、まるで悪魔の世界だというように感じられました。私はまるで自分が罪を犯したような気持ちに襲われました。それは20世紀の大事件でしたが、21世紀にはそういうことがあってはなりません。21世紀にはもっと祖父母、あるいは両親も子どもが一緒になってよき家庭を持ち、人間のいのちを大切にするという根源的な思いに立ち返らなくてはならないのに、それができるような用意がいまだにないのが問題です。

 

死は日常のうちに

私たちのいのちは有限です。すべての人が死にます。愛する者も、愛して両親も死ぬ、あるいは妻や夫も死ぬということを私たちはもう一度厳粛に考えなければなりません。ソクラテスが言ったように、「人間はよく生きるために生まれてきたのだ」ということもっとこころに留めるべきです。私たちは希望して生まれたわけではない、気がついたら生まれていたのです。しかし、生まれてきたからには、私たちのいのちをどうよく使うかということを考えるべきなのです。先ほど笹川理事長が「終わりよければすべてよし」とシェークスピアの言葉を引用されましたが、私たちはこれまでよく死ぬという人生の最大のイベントにどのように真剣に取り組んできたでしょうか。ハイデッガーは、「人間は死への存在である」ともいっています。

死は人生の端にあるものではない、クレシェンド(次第に強くなる)になって、最高になったところで生きる証をする、それが死であるというのですが、そういう死についてもっと家庭の中で、1世代の間で話し合われなければならないと私は思っています。『葉っぱのフレディ』を私が脚色したのは、ぜひこのミュージカルを1世代で観ていただいて、そして家に帰ったら、あの木の葉っぱが散るように、おじいちゃんも死んでいく、ママも死んでいく、私だってそうだ。それでは私たちは一体どうしたらよいのだろうか、私たちはどういうようにきょうを生きればよいのだろうかということを率直に話し合わなければならないのです。

がんの末期の患者で、あと1週間か10日しかいのちが残されていない人が、その最後の日々をそのいのちが本当に尊厳のある、意味のあるいのちであるということが証明されて、そして死を迎えるのであればそれでいいのではないか、そしてその生き方は子どもや孫、そして親しい友達に伝わっていくのです。

 

 

 

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