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死んでしまったら「無」、何もないさという考えなら、こんなことは言いませんよね。あるいはこの近くの山寺、立石寺(りゅうしゃくじ)の一番上に行ったことがおありの方はお分かりかと思いますが、奥の院のお堂の中に何があるかというと、花嫁人形なんかが一杯飾ってあるのです。あれは何のためか。結婚しないで死んでしまった自分の子供が、いまや適齢期である、あの世で結婚させなくてはいけない。だから配偶者となる花嫁を人形として奉納する、ということをやってらっしゃいます。それはまさにあの世において、死後も魂が存続しているということがあるからこそできるので、何もないさと言ったら、たぶんそんなことはしないわけです。

ただそうは言っても、近年は「死んでしまったら、もうお終いさ」という考え方もよくあります。これは科学技術の進歩や、合理的な考え方が浸透してきたということが言えると思いますし、あるいは社会の中で世俗化といわれますが、宗教的な営みというものが縮小してきている、ということがあるかもしれません。

一見、死んでしまったらもうお終いさ、来世があると考えている方が遅れているのじゃないのか、という感じで言われます。でも、誰も正解は知らないわけです。つまり来世があるかないかということ、それは本当に死んだ人がここへ戻ってきていないから、誰も正解は知らない。あると言っても嘘じゃないかもしれないし、ないと言っても嘘じゃないかもしれない。そこはよくわからないわけですね。つまり死は不可逆的な現象であって、死んだ人はこの世に戻ってくることがないからどうなるかわからない、それが真相だと思います。ただそう考えてみますと、来世の存在や生まれ変わりが信じられる人というのは、死別という体験は悲しい苦しみだと思いますが、ある意味でまだ救われるかと思うのです。しかし死後無になるとみなした場合、そのあと結構苦しいのではないかと思います。つまり、死は自己の消滅だというわけです、今いる自分がいなくなるということです。これは、じっと考えたらすごく怖いことではないかと思います。今いる自分がなくなってしまう。あの世があれば続くわけです。あの世の存在を認めなければ、今ある自分はまったくなくなってしまう。これが苦しみであると共に、不安を呼び起こし、死が怖い存在であるというふうになり、さらには「死にたくない」という感覚になってくるのではないかと思います。特にこの頃、そういう考え方がひじょうに強くなってきていますから、死は忌み嫌われ、こういう会をやること事体、気持ち悪いじゃないかという人もいるのではないかと思います。

そのあたりが、実際の日本社会においてどうあるかということを考える資料として、近頃の雑誌記事で「死」がどう扱われているかを確かめてみたことがあります。具体的に名前を出しますと、中央公論です。中央公論というのは、明治20年(1887年)に刊行され、途中ちょっと中断もありますが、116年も続いている雑誌なのです。最初に創刊された明治20年当時は、浄土真宗の本願寺派所属の青年僧侶の修養雑誌として刊行され、とりわけ禁酒運動などをスタートにしていました。その当時の題名は「反省会雑誌」といっていたのです。それが「反省雑誌」となり、今の「中央公論」になり、その間に修養雑誌としてだけではなく、思想、学術、文化、社会などに関する評論を自由に載せることで、ある意味では日本の文壇、論壇を引っぱってきた指導的立場にあったと思います。島崎藤村の「夜明け前」もここに最初に出たわけです。夏目漱石や谷崎潤一郎なども書いていますし、民俗学者の柳田国男も書いています。文壇、論壇のいろんな人が書いているということです。だいたい、1,400冊くらい出ています。

 

 

 

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