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僕は今日会ってばかりの田淵さん(トラックの運転手)とも話をけっこう普通にできたし、トイレも全然気にならなかった。月曜日で人は少なかったけど、田淵さんに会って、トラックに乗せてもらったり、話もしたりしてとても楽しかった。僕は、桜井先生がちゃんと市場で魚が売れるようになったら、社長に言ってバイト代を出してくれるように頼んでくれると言っていたので、先生にそのことを念を押していった。でも今になって、お金より大事な社長の藤井さんやほかの人たちとお金やバイト代のことで、今の関係が悪くなるのがいちばんいやだと思った。お金は母などが送ってくれているのだけじゃ、服やクツなども買えないし、それを母に買ってもらっていたら、今までもかなり無理をしているので、あまり迷惑をかけたくないことや、自分の買いたい物もあるので欲しいとは思っていた。でも、お金と今のみんなとの関係のどちらかを選べと言われれば、当然社長たちみんなのほうを取ると、今僕は確信できる気がする。桜井先生もバイト代のことは言いにくいと思うので、社長が僕を見て、本当に一生懸命やっているとわかったとき、バイト代を出してくれればいいと思っている。なんといっても、腹が気になって、気になって調子が悪かった僕を市場においてくれて、いろいろなことを教えてくれた社長に失礼だし、社長が横で大きな声で「いらっしゃい」とか言ってくれたおかげで、僕も声を出せたし、お客との話もできるようになったのだから。社長のことは感謝し、尊敬できる人のひとりである。

僕は過敏性大腸炎になってからいろんなことがあり、精神医学や心理学の方面への大学進学を考えるようになった。今は大学の社会福祉学科に行きたいと思っている。そして、僕は自分がこういう心の病にかかって、そして今よくなり社会に出て行くといううれしさや感動、幸せを僕と似たような心の病になっている人に味わって欲しいので、ほそぼそとでもがんばっていきたいと思っている。

―中略―

最後に、僕が過敏性大腸炎になり、カウンセリングを受けなければならなかったことで、言い方は変だけど、病気になって今は自分は強い人間になれたし、本当によかったと思っている。もし病気になっていなければ心理学の方面へ進むこともなく、平凡な生活、何となく大学へ行き就職していたと思うと、今はこうなってよかったこともいっぱいあったなあと思った。

 

《予後》R男は、25日にはわき上がる思いを押さえきれずに5ページにも及ぶ日記を書き上げた。セラピストの目にそれは尽きることのない魂の叫びのように映った。

今までさぞ多くのことを心の中で、R男はひとり繰り返し、繰り返し唱えていたことだろう。

これに続く27日の日記や12月1日の日記などに、R男のあふれる思いが綿々と書き連ねてある。この後、12月末までR男は市場で目覚しい働きをし、年末にはなにがしかのバイト代を手に入れた。これはセラピストが働きかけたものではなく、市場の皆さんが口々に褒め、バイト代を出すように社長に働きかけてくれたおかげである。

年末の人、人、人でごった返す市場の中で、頭から海水をかぶり、ほっぺたに魚のウロコをつけ、右に左にと走り回るR男の姿を私たちは感極まる思いで見ていた。

これからまだR男の人生には越えなければならないハードルがたくさんあるであろう。

 

 

 

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