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中学校入学後は、あまり成績も振るわず、でも登校だけはしていました。だが後年になって彼が話したところによると、いじめにあっていたそうです。やがて公立高校へ入学。2年の頃から、下校後アルバイトをするようになりました。ところが3学期、体育の出席時間が足らず、留年を余儀なくされました。北風がビュービュー吹く田舎道を学校に行き、学年主任などに進級させて下さるように頼みましたが、保健室への出席すらも認められませんでした。バス停までの田舎道を30分、泣き泣き歩いたことを思い出します。その道は、二度と通りたくありません。

 

家庭は修羅場だった

そして、高校2年の3学期で中退。中退後は午前中は寝ていて、夕方から食品売り場の品出しのアルバイトを続けました。そしてこのままでは将来に対する不安があるため、私の知人に頼み、その人の経営するスーパーマーケットへ全部承知の上で就職させてもらいました。社長もよく面倒を見てくださり、トントン拍子に出世?しかし、ここではいよいよ鼻をへし折られることになり、出社拒否。「ごめんなさい」のひと言が言えたら返り咲きができたものをと、今でも悔やまれます。何年か後に、再入社を社長に頼み込んだらしいですが、ていよく断られたようです。

その後、3年間フリーターをやった後、やっと中堅のスーパーへ入社しました。ここでもトラブルがあり、出社拒否。長男が車で送っていったりしましたが、ここもアウト。うつ状態がひどくなり、傷病手当金をもらいながら治療に専念しましたが、家庭内暴力と酒、たばこ。そして夜は、私を寝かさず、泣く、わめくで1年間くらい家庭内は修羅場でした。他の家族の者がへんにならなかったのがせめてもの救いでした。私もまだ、今より少しは若さもあり、エネルギーもあり、やはり世間の目も気にして必死だったのかもしれません。

やがてビデオ屋さんに就職しましたが、3日目に相手方に断られ、それからは職を転々。その頃、両親に内緒で家を出たいと、長男が保証人になり、アパートへ引越しました。その後、昨年は自殺未遂を繰り返し、何度救急車のお世話になったことか。救急隊にもいやみを言われたり、私は今でもあの音を聞くと体が拒否反応を示します。その後、私たち夫婦は(Tを連れていくこともあったが)いくつもの精神科を訪ね回りました。もう精根尽き果てたという時に、現在の心療内科の先生にめぐり会い、T本人もカウンセリングを受け(週1回)、気持ちも少々穏やかになってきています。

私も、月2回同じ先生によるカウンセリングを受け、主にTのケアーの仕方と、私自身をどう手なずけてよいものかを相談しています。しかし、お金は相変わらずせびるし、年金生活者の私たちにはきつい日々です。アパートで奇声を発したりして、アパートのオーナーから立ち退きを迫られたこともあります。その時は、私が市の弁護士に相談に行き、「出る必要なし、奇声を発することは生きている証し」とへんな励ましをいただいたりで、何とかオーナー、不動産屋とけんかをしながらもTを守り、助けてまいりました。

いつも、彼に振りまわされてきた日々でした。昨年までの数年間の修羅場から見ると、今は徐々に穏やかになってきています。でも、まだまだ気分にむらがあり、情緒不安定のところが多分にあります。

 

 

 

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