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休みの日には今までどおり、家族で外出したり、娘の友達も誘って遊園地へ出かけたりした。特に家族の対応もなんら変わらず、だれもが心中では登校を望んでいたとは思うが、不登校を責めたりしなかった。

私たちは、周囲にも「そうなのよ、学校へ行ってないのよ」と、臆することも隠すこともなく接した。母娘とも明るいので、不登校で悩んでいる人たちから相談を持ちかけられたり、娘などは不登校気味の友達と話した後「○子のお母さん。うちのお母さんと話をすれば、気持ちが楽になるのにね」と言うほどだった。

不登校を隠そうとせず、さまざまな人の意見を聞き、本を読み、マスメディアの意見に耳を傾けたのがよかったのだろう。私の考えの根本は、前向きのつもりだ。この子の社会性は十分育っている。学力は後につけることもできるはずだ。今、学校生活をしなくとも、将来社会生活ができればよい。子どもは三人三様、十人十色。それぞれに合った育て方をしていこう。人間的に豊かに育っていくことを疑わず、共に育とうという思いが私にはあった。

私が目立つ母親なので、学校のPTA問題に取り組んでいる時などは、「自分の子は不登校なのに…」と、後ろ指を指されたこともあった。弟が登校渋りになると、「育て方に問題あり」と言われたこともあった。もちろん育て方の反省もした。ただ、人にやさしいが故に、子どもが悩み傷ついていたのだった。思いやりの心、相手の立場に立って考えることが、世の中薄れてきている。私の場合、子どもにそれを求めすぎ、社会とのギャップにとまどいを感じさせてしまったのかもしれない。

一概に不登校といっても、相手の立場、気持ちを考えすぎて不登校になったのかもしれない。そんな子どもを、全面的に受け入れる場が必要だとつくづく思う。

 

みんなちがって、みんないい

「みんなちがって、みんないい」と金子みすゞの詩にあるように、いろいろな子がこの社会にはいるのだという目で、大人が見守る必要がある。社会のものさしで測って、悪いものはいましめる必要があるが、見守ることが大切だ。

また、学校へ行かない=悪いという考えは、改める必要がある。そこには、そばにいる者の見極めの重要さもある。自分の気持ちではなく、子どものことを考え、より良い方法を子どもと同じ目の高さで考え、時には人生の先輩として高い所から見て、子どもの気持ちをくんでやり、受け入れたり、つき放したりできたらよいと考える。

学力は、やる気になればいつでも身につく。アインシュタインだって学校嫌いだったというではないか。エジソンもしかり。私は、不登校をしているわが子にとって必要なことはなんだろうと、常に考え行動してきたつもりだ。

早期教育うんぬんといわれているが、年齢に合った大切なものは何か。例えば、心の教育の基は幼児期にあると思う。幼い頃、友達・大人・小動物等との自然な触れ合いが大切だ。生活、営利中心の世の中では育たない思いやりの心。友達とけんかして、仲直りする。動物の死や、先祖を思うことで生きる力を育む人間にとって本来大切なものは何か。それを問い、社会が各々の心を大切にしない限り、不登校児は残念ながら増加し続けるだろう。だからこそ、画一的でない、多様性を認めていく社会でありたい。そして、そういう大人でありたい。

 

 

 

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