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しかし、人が人に平等に接し、認め合うことは、自分にそういう経験がなければできないのである。たとえば、いじめられていた子がいじめる側にまわってしまったり、児童虐待を受けてきた子が、親になった時に自分もしてしまうケース。つまり、被害者であったものが加害者になってしまうのも、本人だけの問題ではなく、それ以外の方法を知らなかったから、認められてきた経験がないからではないだろうか。

私が言いたいのは、不登校、登校拒否は特別視する必要はないということ。子どもたちは平等であるのだから、不登校、登校拒否だけを見て特別とはならない(もちろん、不登校、登校拒否の子どもたちが低いということではない)。また、そのことから不登校、登校拒否が、決して失敗や挫折ということではないということ。つまりは不登校、登校拒否はその子の個性の現れであり、自己主張のひとつの形であるということ。そして、不登校、登校拒否という道を、子どもは自らの意志で選択したのである、それは尊重されるべきものである。

 

弱さの否定こそが問題

次に、弱いものも必ず平等であり、尊重されなければならないということ。不登校、登校拒否に限ったことではないが、当事者の問題にされてしまうことが多々ある。いじめの問題でも「いじめられるのは弱いからだ」と、被害者であるはずの子どもが問題視される。もし仮に、不登校、登校拒否の原因が本人の弱さにあったとしよう。また、そのことで問題視されたとしよう。では、弱いことは悪いことで問題とされることなのか。そうではないはずだ。弱いものは生きられないなんておかしい。力のある強い者だけが優遇されていいはずがない。たとえ弱かろうと強かろうと、人間を否定する権利はだれにもない。弱者も強者も、平等に尊重されなければならないのだ。

また、被害者が加害者になってしまうのも、この弱さの否定がひとつからんでいる。いじめられるのは弱いからという論理は、強者はいじめてもいいという意味でもある。つまり、弱さを否定されたら強者になるしかなくなるが、ここでいう強者とは加害者であるから(加害者は否定されていない)、加害者になってしまう。強者になるとは、たとえば、武器を持つことや、自分より弱いものを見つけた場合などである。このことからも、「弱さの否定」はおかしいことがわかる。

 

子どもの声を聞いて欲しい

子どもが尊重されているとは言えないことが、多々ある。

しかし、今の社会を見ていると、不登校、登校拒否を失敗と見る人はまだたくさんいる。また、私も苦しんだことだが、学校に行っていないということだけで、選択肢が極端に少なくなるのだ。入れる高校は、定時制や通信制と、一部の私立しかなかった。定時制などが悪いというのではない。選択肢が少なくなるということが、不平等だということ。不登校、登校拒否児童、生徒は、学校に通うことができないからだとでもいうのか。人間は一面だけでは見れない。それなのに、知りもせず決めつけるのはおかしい。また、不登校、登校拒否であるだけで、評価はオール1が付く。評価できないのだからしかたない、と言う人もいるかもしれないが、評価できないのだったら、1という悪い成績も付けられないはずだ。

 

 

 

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