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母親も不安をひとりでは抱えきれなかったのだろう。母はその後すぐに、伯母づてに聞いた地元の大学病院の精神科・神経科の中にある「思春期外来」というところに出向いたりしていた。母は、私に対して「学校に行きなさい」とは決して言わなかったけれど、「いっしょにカウンセリングを受けに行こう?」と何度も勧めてきた。

いやだった。「私は病気じゃないのに、なんで精神科なんて行かなきゃいけないの?」と何度も拒んだ。外に出たくなかった。人に会いたくなかった。現実世界に私の居場所なんてないと思っていた。どこにもあてはまれない。昼夜も逆転してきていて、夜は眠れずに、眠っている母の布団にそっと忍び込んで、ただただ手を握ってぼろぼろと涙を流す毎日だった。外が暗くなると考えることも暗くなってしまう。死んでしまいたい。何度も思った。みんなと同じようにできない。普通に学校に通うことすら。

 

週1回の登校(ドナドナの日)

学校に行けない状態でも、留年はしたくないと思っていた。行きたくないわけではなかった。少なくとも、この頃はまだ。情緒は不安定だったけれど、何度かは、泣く泣く週1度しかない授業を受けに行った。教室に入ったら、私の机は教室のいちばん隅のいちばん後ろにおいやられていて、その中には莫大な量のプリントの束がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。

「学校においでよ、みんな待ってるよ」というクラスメートの言葉がうそっぱちだということを痛感した。みんなどうでもいいのだ。私のことなんて。私がいようといなかろうと変わりはしないのだ。そう感じるたびに泣きたくなった。教室に、その授業のためにたった1時間いるだけでもう十分苦しかった。勝手に涙が出てきて止まらなかった。体は硬直したまま震えていた。息ができなかった。死にそうだった。

そんな私に担任は「学校に来なくても、奨学金だけはしっかりもらってるんだからな」と、平気で冗談っぽく皮肉を言った。それを笑って受け流す自分もいやだった。どうして腹が立つようなことを言われているのに怒れないのか。どうしていい子でいようとするんだ。こんなに苦しいのに。こんなに押さえつけられているのに。教室を出て職員室に顔を出し、担任と話した後、廊下に出て人がいなくなると、ここぞとばかりに涙がぼろぼろ流れた。

母は学校の玄関前で車に乗ったまま、そんな私をじっと待っていた。たった1時間でも、私にとっては言いようのないくらいに壮絶な修羅場だった。よろよろと青ざめた顔で車に乗り込む私を見ながら、母はどんな気持ちだったのだろう。何度目かの「ドナドナの日」(私は心の中でそう呼んでいた)、母はぐったりしたまま車に帰ってきた私に、「お母さん羊羹が食べたいんだけど、K寺まで行ってみようか」と明るい口調で言った。母は免許を取りたてで、いつもなら慣れないところには行きたがらないのに。そのK寺までは、車で迷いながらだったので1時間はかかったと思う。母と紅葉を拾いながら石段を上がった。境内には羊羹など売るお店がいくつかあって、お参りをしてから母は羊羹を買った。私は羊羹があまり好きではなかったけれど、その日は少し食べた。寺に特別興味もなかったけれど、それでもなんだかとてもうれしかった。そのお寺までのドライブは、母なりのやさしさの表現だったと思う。それがちゃんと伝わってきたから。帰りがけに羊羹を売っていたお店のおばあさんが、「おねえちゃん、がんばってよ〜」とふんわり声を掛けてくれた。

 

 

 

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