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続日本の海岸はいま… 九十九里浜が消える!? ?漁港と海岸線の変遷?

 事業名 海洋・船舶の実情調査及び研究等
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


【宇多】 展望台から九十九里浜を眺めると、海岸線を歩くだけではわかりにくいことが良く理解できます。 九十九里浜は、飯岡町の萩園という場所で海岸線が90度曲がります。ちょうどお椀の縁の部分ですね。ここの沖合いには、消波ブロックを積み上げて築いた離岸堤がたくさんあるのが見えますが、全部で16基入っているはずです。離岸堤というのは一基で大体約3,000個の消波ブロックを使用します。ですから、消波ブロックの値段が1個10万円くらいと見積ると、離岸堤1基作るのに3億円かかるんです。ここは16基ですから48億円。海岸の工事というのはこのように非常にお金がかかります。飯岡の漁港から沖へ延びる防波堤が見えますが、先端部のほうは水深が5〜6mありますから、1m当たりの工事費は1,000万円近くかかっています。

 

話を戻しますが、萩園付近の海岸線では4mほどの水深の所に離岸堤を設置しているので、岸には随分と砂浜が広がっています。ここは今でこそ砂浜があって海水浴場として有名ですが、実はこの砂浜は離岸堤が設置されてから広がったもので、自然な状態で増えたわけではありません。もともと飯岡一体は、古くは鎌倉時代から侵食に悩まされて来た場所でした。飯岡の地名にも名を残している飯岡助五郎という江戸時代の有名な方がいましたが、この人は地元の侵食対策に尽力されたそうです。この展望台にも飯岡地区の侵食対策の歴史を物語る写真が多数飾られています。

 

前に話したとおり、九十九里浜のように正面から波が入射するお椀状海岸の縁の部分というのは、基本的に砂が堆積しにくい場所ですから、現在のような侵食が起こるはるか以前から、ここ飯岡だけは地形的な理由で侵食が起こっていたわけです。

 

では、なぜここに急に砂浜ができたかというと、1980年(昭和55年)代に飯岡漁港の工事を行う過程で浚渫した砂を、防波堤の沖の海に持っていったのですが、それが流れてきて離岸堤によって波が静かになったあの場所に堆積したわけです。その当時は、年間8万m3ほどの砂を沖へ投げていたんですが、40年以上昔は年間20万m3程度以上流れていたはずです。この根拠は、屏風ヶ浦の海食崖の平均的な後退速度は、昔は1年に70cmほどで、崖の高さが40mほど、全長は約10kmですから、0.7 m×40m×10,000m=28万m3という土砂が、この海辺に崩れ落ちて流れ込んでいたことから推測できます。

 

漁港の建設によってどのような現象が起きたかを説明しましょう。飯岡漁港ができる前の海岸線というのは、海食崖と龍王岬を真っすぐ結んだ線でした。その後、港が欲しいということで、1964年(昭和39年)に造り始めたんです。ところが、屏風ヶ浦のほうから砂が流れて来て港がどんどん砂に埋まってしまうので、これを防ぐような形に防波堤を造ったんです。しかし最初から今のような形の防波堤を造ったのではなくて、防波堤を伸ばしては砂が堆積し、さらに伸ばしては堆積するの繰り返しであったのです。くねくね曲がった現在の防波堤の形は、まさに砂との闘いの苦労の跡を物語っています。

 

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刑部岬展望台から見たパノラマ

 

 

 

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更新日: 2009年7月4日

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