そのローズヒルがワーレン号という帆船を仕立て、多くのグアノ採集の人夫を乗せて、去る七月八日ホノルルを出帆しマーカス島に向ったとの新聞電報が東京に届いた。さらに電報は、ワーレン号には多数の武器弾薬類が積み込まれているとの情報も付け加え、また、それを裏書するように、
「上陸に際し、若しも不当に日本人が妨害するような事があったら、我々は容赦なく銃弾をもって米国の正義を思い知らせるだろう」
ローズヒルの声明まで報道されていた。
しかし、南鳥島が日本領土であることは国際法に照らしても、明々白々の既成事実であるとして政府は当初日米双方の外交折衝を通じて事穏便に処理する方針であったが、それにしてもローズヒルの行動はあまりに唐突で直接的である。(万一、流血の惨事でも起きたら……)もはや一刻の猶予もないと判断した政府は島民の生命の保護を第一に考えて、軍艦の派遣を即決したのだった。
秋元中尉の説明に初めて事情を知った労務者の中には感謝と感激のあまり涙をながし、沖合の軍艦に掌(て)を合わす者もいた。
労務者たちの協力でたちまち仮兵舎が出来あがり、「大日本軍艦笠置派遣駐剳隊」と墨痕鮮やかに記された大きな標柱が兵舎の正面にうち建てられた。そして喨々(りょうりょう)たる喇叭の音とともに真新しい海軍旗が掲揚されると、島の人たちは思わず「万歳!」を叫んだ。
一夜明けると、笠置は内地へ帰っていった。
その翌日、まさにその翌日のことである。あたかも笠置が立ち去るのをどこかで窺っていたかのように黄色い帆を張った一隻の船が島の西方に姿を現わした。ワーレン号であった。
「配置ニ就ケ!」の喇叭が鳴った。秋元中尉は直ちに部下五名を連れて、南岸に近づいてきたワーレン号に乗り移った。