その頃、身を処するうえで語り合う昵懇の相手とてなく、また、現実の借財の重みに唇をかみしている境遇の新六ではあったが、不思議に、あの南鳥島を離れるとき椰子の木の幹に高々と掲げてきた日の丸の旗が、目に浮かんでくるのであった。旗は南海の潮風にハタハタ……と鳴っていた。
明治三十年三月二十二日 申請人 東京都日本橋区二葉町三十四番地 平民 水谷新六 ―として、発見した仮称「南鳥島」の日本領土編入の件を内務省に申請した。
続いて、四月五日付で東京府知事に「島嶼発見届」を提出する。
とかく書類作成に不馴れな新六は、役所に書類を提出する度に、役人になったばかりのような未だ口髭も生(は)え揃わぬ役人から、書式や字句の書き直しを再三申し渡された。時には、臓腑(はらわた)の煮えくり返るような屈辱をおぼえることもあったが、じっと我慢した。
やっと、届書の提出が終わると、新六は雑貨や自費で買い集めた簡便な建築資材を天祐丸に積み込んで、小笠原島へ向けて出航した。
最初、小野田は無人島発見のことは喜んでくれたが、いざ労務者募集の件になると、首を傾(かし)げて呻った。新六は熱っぽくその真意を説明した。
―もとより、私利私欲のためでなく、南鳥島を日本領土として世界に認知させるため、その実質的な既成事実をつくることを意図して先ず労務者たちを島に送るのである。
なるほど、小野田としては信頼する新六の真意は一応理解できるものの、実際問題として、この小笠原から千三百キロも離れているという絶海の孤島に、誰がおいそれと行こうとするものか。