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明治二十九年(一八九六年)十二月十九日、夜明けの穏やかな潮風のなかで、木造機帆船天祐丸の右舷はるか水平線のあたりに、当直操舵手松本彌吉は何やら小さな黒点らしきものを発見した。

積荷のまま、サイパンを出航して大海原を北上し続け、やっと十三日目に再び交易のためサイパンヘ反転したその朝のことであった。

―それは水鳥やイルカなどのいたずらでなく、まさしく陸地の陰に相違ないことを備え付けの望遠鏡で確認すると、

「島だ!」

と叫んで、相棒の当直を船長室へ走らせた。

船長より早くタラップを駆けあがってきたのは船主代理の水谷新六(みずたにしんろく)であった。

新六は息を殺して、当時としては珍貴なツワイス製の双眼鏡を覗き込んだ。そして、松本操舵手の指差す朝焼けの清澄な南海の大気の移ろい漂う水平線のあたりに、粟粒ほどの島陰をはっきりと愛用の双眼鏡に捉えた。

新六は憑(つ)きものがしたかのように、躰を硬直させながら呻いた。

船長、航海士、機関長たち、船の幹部も寝込みを襲われたような恰好で集まってくると、狭い操舵室には一瞬異様な興奮が渦巻いた。

(新島発見か?)

たしかに海図にない島陰だ。

しかし、船主代理たる水谷新六の発議で、本来の交易業務を中断してサイパンを出航し、新島探検に乗りだした今回の航海の目的からすれば、グラムパス群島という宝島でないことは一見して推察できた。刻々と天祐丸の舳先に近づいてくる島陰はどのように想像しても、グラムパス群島の伝説に比べ、あまりに平板、狹小な珊瑚礁のようで微かな失望も否定できなかった。

 

 

 

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