CASE1
I. 介護をすることで自分の知らない自分と出会う
痴呆の義母を介護する女性
自分を責めすぎないように
痴呆がはじまった義母と同居することになり、数カ月間、ホームヘルパーなどのサービスはまったく利用せずに私一人で対応していました。義母が入院した今では、もっと優しくしておけば良かったと思ったりもしますが、それは、余裕が出てきたから思い返せるのかもしれませんね。当時はもう大変で必死だったので。
いちばん辛かったのは、私の居場所、私の時間がなくなってしまったことです。家の中では、どこにいても義母の姿が目に入って気が休まることがなく、精神的な疲れがたまっていきました。
同居することになったときから、友人たちに電話で報告や相談をしていました。本音を聴いてくれる人たちで、その存在がとてもありがたかったです。「自分を責めすぎないように」と言われたことは今も支えになっています。
世間で語られている「介護」なんてまだまだきれいごとだと感じます。誰しも愚痴など言わないですむのなら言いたくはないでしょう。ストレスは毎日たまっていくので、たとえ毎日同じ愚痴を言ったとしても、それでも言い足りないのが介護だと思います。
義母に対しては、本人にもできる身繕いや周囲への気遣いについては、なるべく自分自身でしてもらうように、お願いしました。私がしてしまった方が楽だし早いのですが、それは違うと考えました。本人に代わってしてあげるのを我慢するためには、相当の忍耐が必要になります。
介護は根本的なものを問う
介護される人の気持ちやプライドも大事なので、それを配慮するにも忍耐が求められます。しかし、その忍耐を保ちつづけるには、何よりも心の余裕が必要です。その点からも、介護というのは非常に「根本的なこと」を問われているような気がします。自分のこれまでの生き方や、自分が他人をどんなふうに見てきたのかが問われるのです。