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船首部は前から約3分の1の所で折れて、約2,800klの油をかかえたまま漂流し始めた。

2時51分、舞鶴にある日本海西部統制通信事務所は、VHFによりSOSを受信したが、そのあとはロシア語だったので詳しいことはわからなかった。2時55分頃、今度はモールス信号で救助を求めていることを知らせてきた。3時前後、今度はVHFにより片言の英語で、ナホトカ号というタンカーであること、乗組員が32名おり、船首が折損し航行不能になっているが、火災は起きていないと知らせてきた。

3時半過ぎ、第八管区海上保安本部(八管)では、現場に近い隠岐島をパトロール中だった巡視船「わかさ」を発動させ、続いて巡視船五隻、航空機、航空自衛隊のヘリコプターを現場に向かわせた。

4時、ナホトカ号は左舷側にわずかに傾斜したため、左舷から右舷にバラストを移し始めた。6時30分までに、断続的にバラストを移送してバランスを取ろうとしたが、左舷に8度まで傾いてしまった。

7時15分、救命ボートを海上に放出した後、船は急に大きく15度位まで傾き、あらゆるものが左舷にとばされた。その後、再び大きく傾いて左舷側に30〜35度傾斜したため、乗組員は救命ボートに乗り込んだ。沈没を逃れようと細かな指示を出し続けていた船長は逃げ遅れたという。救命ボートからは、ゆっくりと転覆していくナホトカ号とスクリュー、そして救命ボートが浮遊しているのが見えた。この間わずか5分間の出来事で、8時20分頃ナホトカ号は沈没した。

その後、八管の航空機が、現場周辺の海上で漂流している6隻の救命ボートを発見。午前11時36分から午後1時5分の間に31名の乗組員を救助したが、船長だけは行方不明だった。午前10時10分にはデッキを上にして普通の状態で漂流している船首部を発見した。そして、船長の捜索と油の監視を始めた。3週間後の1月26日になって、ベレリー・メリニコフ船長の遺体が、福井県越前町の白浜海岸で発見された。

6日、重大な油汚染に迅速に対応するために95年に閣議決定された「油汚染事件への準備及び対応に関する国家的な緊急計画」に基づき、18省庁の連絡会議を開き、各省庁の対応を協議した。

ナホトカ号の船首部と流出した重油は、当初は対馬暖流に乗り北西の季節風に押されながら南東に流れてきたが、陸に近くなって対馬暖流からはずれ、福井県沿岸に近づいた。7日、午後2時30分、一旦石川県境近くまで流れて行った船首部は、突然後戻りをして、黒いしぶきをあげつつ福井県三国町安島岬沖に漂着座礁した。風に吹き流された油塊は、福井県と石川県を中心に10府県(京都府、島根、鳥取、兵庫、福井、石川、富山、新潟、山形、秋田の各県)の海上を漂い、富山県を除く九府県の海岸に次々と漂着し、沿岸の人々の油との闘いが始まった(図3.3.1)。

同じく7日、八管では現地対策本部を三国海上保安署に設置し、福井県と三国町も「災害対策本部」を、石川県では「事故対策本部」を設置した。以後、重油の漂着した府県で次々「災害対策本部」が設置された。

10日、政府は運輸大臣を本部長として「ナホトカ号海難・流出油災害対策本部」を設置し、16省庁で第1回の対策会議を開いた。

 

 

 

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