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この河岸は特に広大な取引き背後地を持っていたと言われており、その荷主は所沢、八王子、青梅等の他、遠くは甲府にまで及んでいた。この河岸には、三上、井下田、高須の三軒の廻船問屋があったと言われており、近隣で生産された農産物、材木、薪などを江戸へ積み出すとともに、江戸から肥料や日用品等が運ばれていたのは、他の河岸と同じである。

また、この地は「いろは樋」のあったことでも有名である。この樋は野火止用水がここまで流れてきて、新河岸川に落ちていたものを対岸の宗岡に掛樋を架設して農業に使ったものである。舟運の盛んな新河岸川を通すため、その妨害にならないように川の水面から一丈四、五尺もの高さにしており、四十八本の木樋を継ぎ合わせてあったことから「いろは樋」と呼ばれていた。

この地を訪れると、新河岸川と柳瀬川が合流する岸辺に「引又河岸跡碑」が立てられており、その歴史が書かれている。また、栄橋のたもとには「いろは樋」が復元されており、その由来や歴史を説明する展示設備が設けられている。いろは橋を渡ると、宗岡小学校の隣に志木市立郷土資料館があり、ここにも舟運の歴史を記録するためのコーナが設けられている。資料は多くはないが、舟鑑札等が展示され当時のことを知ることができる。

3] 下流の河岸

図1には、中河岸の下流の新河岸川に、宮戸、浜崎、根岸、新倉の4河岸が示されている。さらに、新河岸川が荒川(隅田川)に合流してから大野、芝宮、早瀬、赤塚、蛎殻、戸田、大豆沢、赤羽、野新田、熊ノ木、尾久、千住、浅草花川戸の13の河岸が列挙されている。この他、浮間、川口の名をあげている資料もある。

この下流部の河岸のあった地域は、開発の進んだ地域で、今や河岸の名残を見つけ出すのは、たいへんである。

 

(4) 川越舟の運行

舟運が始まった頃は、主として年貢米を輸送していたが、その後貨客の輸送が増えてきたことから、上流の川越五河岸の近辺は、船問屋や商家の立派な建物が軒を並るようになり、下流にも多くの河岸ができ、産物の輸送が盛んになっていった。

乗客がこの舟運を利用するようになったのは天保年間(1830-43)といわれている。川沿いの河岸で船客を乗せた川舟は、江戸近くの千住大橋等で船客を下ろしつつ、最後は終点の浅草花川戸に到着する。現在、隅田公園になっている辺りが当時の浅草花川戸の河岸場であった。直ぐ近くに浅草観音がある。当然参詣を目的の人もいたことであろう。しかし、終点とは云ってもきちっと決まったものではなく、舟の中にはさらに隅田川を下だって日本橋や箱崎辺りまで行くものもあったようである。

本来川舟は、不定期なもので、各問屋を荷物を集めて回り、一隻分の荷物が集まると出発するという、のんびりしたものであった。しかし、交易が盛んになると、当然のこととして、急ぎの荷物が出てくるし、新鮮さを要求される荷物も出てくる。したがって、だんだんとその要求を満たすための急行便が出来てくるのは、自然の成行きである。

新河岸川舟運の最盛期には、次の四種類の運行形態があったと言われている。

1] 並船…普通の意味の川舟で、船頭2〜3人で荷物だけを運ぶ不定期便。1航海7〜8日から20日近くかかった。

2] 早船…乗客を主とする一往復四五日の定期便。乗客は30人程度、多くて50人。船頭7〜8人で夜も漕いだ。「川越夜船」とも呼ばれ、水天宮に参る人も多かったので、一名「水天宮船」とも呼ばれた。午後4、5時に川越を出発し翌朝9時頃に千住、12時には花川戸に着いた。月に6往復位していた。明治12年頃の運賃は15銭で米にして2升5合に相当した。

3] 急船…急ぎの荷物だけ輸送する不定期船で、3〜4日で一往復した。

4] 飛切…飛切り早い船という意味である。船頭7〜8人で、休みなく漕ぎ続け、二日で往復する特急便。積荷はマグロを中心とする鮮魚類であった。

 

 

 

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