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西国三十三観音は、阪東のそれに比べ、大寺ばかりである。一番札所の熊野の那智山青岸渡寺から、三十三番札所の美濃の谷汲山華厳寺まで、皆名を知られた名刹ばかりである。

5月連休の時、醍醐寺への巡礼の帰り道、近江土山の辺りで立派な本堂を持つお寺が目に入り、車を止めた。ちょうど御住職が外出から帰ってこられ、本堂内に招き入れて下さった。ここの御本尊は、鎌倉時代の作と思われる観音立像で、それは見事なものであった。立派なガラスケースに入っておられたが、御住職によると、警察からはもっと厳重に保管する様要求され、消防署からは、万一の場合の持ち出しが容易に出来る様要求され、困っている、と苦笑いされていた。巡礼は時に、この様な望外の楽しみに恵まれるものである。

最後は四国八十八ヶ所巡礼である。これは、リタイアした後の楽しみとしている。十分な時間をかけ、心ゆくまで参拝し、又その道程も十分に楽しむ。考えてみるだけで心が躍ってくる。早くその時が来る様にと願っている。

 

さて、最近の油輸送レートの急騰によって、オイルタンカーの引合いが目立って多くなっている。昨年は、バルクキャリアの商談が多く、当社でもケープサイズバルクキャリアを10隻程契約したが、今年は全く様変わりしてしまい、代わりにタンカーの商談が目に付く。しかし船価は相変わらず底にへばりついたまま、離れようとしない。全く困ったものであるが、会社の業としては成り立つ様な形を考えていかねばならず、日夜頭を悩ませている。

考えてみると、私たちの世代は、会社に入ってから合理化の波の中で苦闘し、いわゆる業の繁栄にはほとんど浴した記憶が無い。苦しい事ばかりの続きであったが、その代わり三十代前半の若い頃から新しい仕事を積極的に任され、苦しい中にも、楽しい思いが大きく感じられる世代であった。昭和53年8月、修繕船部門から津造船所の新造船部門へ移った時は、希望退職の募集が最盛期であり、初日だけで、数百人の応募があったと記憶している。それでも、会社の対応が適切だったせいか、そう人心が混乱したとは感じなかった。

仕事の方は、それまで連続建造していたVLCCがキャンセルとなり、その代替としての小型船ばかりで、RO/RO船とか、Car Carrierとか、ケミカル船とか、いわゆる高い技術レベルが要求されるものであった。その後の10年間は、一時のミニブームでわいたものの、RIG、Jacket、人工島等、海洋構造物が主流商品となり、最終的に北海向けRIGを手がけて大火傷をし、海洋構造物から撤退を余儀なくされた。

この間、若手の管理者として、ほとんどのプロジェクトに関係し、多くの経験を積み重ねて今の自分があると思っている。

 

 

 

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