日本財団 図書館


幕府の行政的な職制として、川舟の取締りに当たった川船奉行という名の記録としては、『徳川実記』の元和8年(1622)12月の項に、「二十四日、美濃部三郎左衛門茂勝、新に川船奉行を命ぜられる。」との記事があるが、幕府の職員録とも言うべき『寛政重修諸家譜』にこの川船奉行補任の記載がないことと、同人が56年後にかなり老齢になって再度川船奉行に任命されていることから、この人が本当に川船奉行であったか、どうかについては疑念を持つ意見もある。(例えば丹治健蔵『関東河川水運史の研究』)

同じ『徳川実記』の寛永10年(1633)8月の項に、「御膳奉行土屋忠次郎利常川船奉行になり」とあり、この補任については、前述の『寛政重修諸家譜』にも明記されていることから、これを文献上明確に表れたものとして扱うことに疑念はない。

この初期の頃の川船奉行の主たる仕事は、城米、年貢米の輸送のために、川舟の現況を把握することにあったと言われている。関東一円のみならず、全国の天領から年貢米を江戸に輸送し、徳川幕臣に給付するために、関東河川舟運は大変重要な役割を担っていた。また、同時に万一戦が始まった場合の兵糧米輸送や、火事や災害の場合の緊急物資輸送も念頭にあったであろう。

その後、正保年間(1644-1648)になると船の大小に応じて税銭を定め、毎年これを徴収するようになった。幕府の命令で業務に従事する役船を勤めるものについても、命じられた業務に応じて定められた賃金を渡し、その一ケ年の合計高について翌年、年貢銭の率を掛けてこれを徴収することとしていた。

17世紀半ばになると、隅田川等においては、屋形舟等を使っての舟遊びが盛んになってきた。しかし、明暦の大火(明暦3年:1657)の発生とともに、復興資財の運搬のために屋形舟のような遊び舟まで全て動員され、舟遊びどころではない状況になってしまった。『東京市史稿・港湾編』に収録されている『八十翁昔かたり』には、「御城の御普請、其外大名衆普請にて、舟は小舟まで材木を運送する故、涼の屋形なく、三、四年舟遊山止み」と屋形舟の動員状況が述べられている。

この明暦の大火以後、関東では川舟の輸送がますます増大し、川筋が混雑したこと、舟持ちが増えたこと等から幕府の財政強化を図ることも兼ねて、川舟取締りの制度も大きく変えられることとなった。この頃の『武鑑』には、「舟改墨印」という職制も出ている。このことは、この頃から川舟の登録のために打たれる極印の制度が定着化していったと考えてよいであろう。さらに、延宝6年(1678)には、川船奉行が三名制となり、この時から幕府の財政を担当していた勘定方出身の者が奉行に就任し、川舟の登録と税徴収を一層強化している。それまでも徳川幕府は、関東河川で荷物輸送に従事する舟に極印を打って登録し、税を取り立てていたが、明治維新後司法省が徳川時代の禁令を集めて編集した『徳川禁令考』の貞享4年(1687)の項によれば、この年に川舟登録のための極印打ち方を強化した状況が次のように述べられている。

「面々所持致し候川舟の儀、荷物を積み候船には、川船奉行方にてこれを改め、極印を打ち、荷物を積ざる舟は、だだ今までは相改ず、極印も打たざるに付き、紛らわしく候にして、商売船の改めにも障り候間、向後川舟の分残らず川船奉行へ相達し、極印うたせ申さるべきものなり。」即ち、この頃までは、商業用の荷物を積む舟のみ極印を打って登録し、荷物を積まない舟は登録が不要であったが、この時からは不正防止のために荷物を積む積まないにかかわらず、すべての舟に極印を打って登録することが義務付けられている。

またこの極印は時々打ち替えられていたようで、同じ『徳川禁令考』の元禄2年(1689)の項には、次のように述べられている。

「この度川舟極印打ち替えに付き、江戸並びに関東筋の川船、何船によらず、当四月より七月中迄に、深川元番所前中州へ船を出し、川舟奉行中へ相達し、差図次第極印受け申すべく候。(以下略)」即ち、江戸及び関東地方の舟は、どんな舟にもかかわらず、4月から7月の間に、深川の元番所前の中洲に船を回して川舟奉行から新しく極印を受け、江戸への運送機会の無い舟は、その旨をこの期間中に川舟奉行に届け出ろというものである。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION