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(歴史)

 

関東河川舟の取り締まりと税

〜川舟奉行と川舟改めの制度〜

 

谷弘

 

1. まえがき

江戸時代の舟は、道路の発達していない地域においては大変有効な移動手段であったし、荷物の大量輸送機関としては唯一のものであった。

江戸に入府した徳川家康は、治安維持の観点から舟を使った密入出国者の取り締まりに力を入れる必要があった。次いで、徳川幕府の財政を維持し、家臣に給付米を賦与するためには、幕府米輸送の舟運を確保する意味からも、舟の実情を把握する必要があった。

その後、江戸の町が発達拡大して人口も増えてくると、全国から物資が江戸に集まるようになり、舟は江戸経済の基盤としてなくてはならないものになっていった。幕府のみならず、各大名、町人もその生活を維持するために、舟を雇い物資を輸送しすることが必然となっていったのである。

このように舟運が盛んになってくると、幕府がそこからの税の取り立てを考えるようになってくるのも、自然の成り行きである。この舟の税には、「舟年貢」と「役銀」と呼ばれるものがあった。前者は本来の税であるが、後者は元々橋の架け替えや堤防工事、あるいは幕府命令の輸送など「役船」といわれる課役が本来のものであり、これをお金で代納するものである。幕府も役銀で他の船を用船した方が便利な側面もあった。従って、この役銀は元々課役の免除されている舟は、納める必要が無かった。

江戸時代の関東河川の川舟に関する行政の仕事をしていたのが、川船改役又は川船奉行であるが、これについて『古事類苑』には、次のように述べられている。

「川船改川船奉行ハ同一ノモノニシテ、始ハ川船奉行ト云ヒテ、勘定頭即チ勘定奉行ノ支配ニ属シ、江戸並ニ関八州ノ川船ノ事ヲ掌リ、ソノ税金ヲ徴収ス、享保中、之ヲ作事棟梁鶴氏ノ世職ト為シ、川船改役ト改称セリ」すなわち、最初は舟の取締りという性格が強いことから旗本が川船奉行に任じられていたが、時代が下がると徴税の方が中心となり、技術的仕事が多くなってきたことから、大工の棟梁が任命され、その職名も川船改役というものに変えられている。

舟を登録したり、舟に税金を課したりするためには、舟の大きさを測る必要があるが、このための計測のことを「間尺を入れる」という。長さ、幅、深さ等を測ることである。私は、この間尺の制度が明治維新以後の和船の積量測度制度にも取り入れられたのではないかと考えている。(青森県野辺地歴史資料館に保存されている海洋船の間尺規則では、船の長さ、幅、深さの細かい測り方とともに、その積に係数を乗じて積量を出す式が示されてる。)この間尺に基づいて課される税が、「間尺役」である。この号では、関東河川舟の取り締まりと税について述べてみたいと思う。

 

2. 川舟取り締まりの沿革

関東の川舟改めの制度は、天正18年(1590)に徳川氏が関東八ケ国を領した後、同年9月に大木才兵衛を川船取締役とし、関内の川々の舟を改めたことに始まると言われている。これはこの時、相模国小田原の北条氏政が滅び、その残党が関内に潜伏するのを取締まるために、この船改を始めたためである。

 

※ 日本原子力研究所理事

 

 

 

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