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写真1 飛島・クリスタルハーモニーそろって故郷へ帰る

 

(3) 労働集約産業からの脱却

昭和31年日本造船業が世界No.1となった時、当時日本を代表する評論家大宅壮一がいみじくも「造船業は中進工業国の先端産業である。日本はやがて先進国の仲間入りをし、日本造船業は消えて行<」と予言しました。私の年代の人間にとっては大変なショックでしたが、考えてみれば的を得た指摘であります。それならば「先進国で成り立つ造船業」を志そう。そのためにはどうするかが一生のテーマとなりました。

昭和50年代初頭、若い人達と一緒に日本の自動車産業についていろいろ勉強しました。その頃自動車産業は労務費の原価に占める比率が10%を切っており、人件費の安い発展途上国に工場進出するより、むしろ自動車の需要の大きい所に進出するよう戦略転換をしていました。因みに一般機械産業は20%以下、我々日本造船業は30%前後であり、当時の日本は世界第2の高賃金国になっていました。この危機感がCIMSに繋がり10年以上に亘る日本財団の多大のご援助により、日本造船業の若者達が集まって情熱を燃やした結果、今は各工場で成果が挙がりつつあります。

CIMSを考える時、三人の方々を忘れてはなりません。まず、三井造船OBで私の尊敬する同期生の綾さん。CPUの可能性については天才的閃きのある人です。彼がアメリカのボーイングの工場(彼はフリーアクセスの出来る数少ない人でした)を見学して「どうもボーイングが製造工程でCPUを使ったすごいことを計画している。日本造船業でもやる価値があるのではないか」と造船学会将来技術検討会に持ち込みました。次に、小山東大名誉教授。綾君のセンサーにかかった情報を最も的確に理解し、システムの全体像を予見し、これを具体的に展開するのに無くてはならない存在としてご指導いただき、現在も続けてご指導をたまわっています。最後に開発の決断をされた今は亡き住友重工社長久保正大さん。CIMSの開発を日本造船工業会としてやるかやらないかを決めるCIMS検討委員会が昭和60年に設けられ、1年余りの検討の結果、各社の工作部長全員が反対する中、委員長の久保さんが「これがなければ将来日本造船業は滅亡すると思う。それならやろうではないか。」と決断されました。

 

 

 

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