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妙見伝説

 

神幸行列の由来

細川忠興は八代に入城以来、在城14年間に妙見宮の復興に心魂を傾け、寛永13年(一六三六)に神輿を造らせ、天井には自ら龍の絵を描いたと記録にあります。また神輿一基や祭礼の諸道具や寺社家の装束に至るまで寄付し、豪壮な祭礼神幸行列を復興させました。この復興期の祭礼は、神輿を中心としまして、その前後に神器や祭具を奉持するおびただしい町人の列に、神主・社僧・武士が乗馬や徒歩でお供し、神馬は細川家の馬を出し、飾馬は忠興家臣団の上級侍から出す豪壮な行列でした。

忠典没後、八代城に入城した松井興長は藩に伺いを出し、細川家の請祭りとして祭礼を引き継ぎました。松井直之晩年の元禄期、この神幸行列に百姓衆の奴・町衆の獅子・笠鉾・亀蛇などがお供することが始まり、神幸行列はここに今日の豪華な祭礼行列の原型が成立したのです。

松井家三代の一貫した努力により、武士中心の祭礼が町衆・百姓衆が参加し、天下太平を楽しむ祭礼へと転換してきたといわれます。

松井家に伝わる行列絵巻によると、道筋を浄める役の獅子2疋にはじまり、木馬12頭・鉄砲隊・長柄槍隊・老若男女の白和幣・弓矢・花奴・飾馬・対の挾箱・神宮寺執行僧の駕篭・宮之町の笠鉾・猿田彦神・神馬・神幸奉行・対の御槍・金幣・さしば・長刀・御太刀・白丁組がお供をする神輿・神主・社僧・飾馬・町衆の笠鉾8基・亀蛇・流鏑馬など大変豪華なものでした。

昭和35年にはこの神幸行列が熊本県指定無形民俗文化財として指定され、さらに現在は「ふるさと創生事業」として、神幸行列の復元や修復等が行われ、往時の豪華な行列が再現されました。

 

出町

亀蛇 きだ

八代ではガメの愛称でしられるこの「亀蛇」は、亀と蛇が合体した想像上の動物です。その昔妙見の神様がはるか中国からこの亀蛇に乗って海を渡ってこられ、現在の竹原神社あたりの「竹原の津」に上陸されたという伝説にちなんでいます。

 

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神輿 みこし

神輿は寛永12年(一六三五)3月に、時の八代城主細川忠興公が妙見宮に奉納されたもので、内外に金箔を張り、天井には忠興公直筆の龍の絵を配するなど、たいへん豪華なつくりで、江戸初期のはつらつとした武家文化をみることができます。

 

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獅子 しし

獅子舞は、元禄時代の八代城下の豪商、井桜屋勘七が妙見祭に取り入れたのが始まりと伝えられています。

元禄4年(一六九一)に初めて祭礼に奉納しました。

雄獅子は角が2本で赤と白の衣装をつけ、雌獅子は角が1本で赤と黄色の衣装をつけています。

 

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神馬 しんめ

神馬は代々、八代城主の愛馬の中から出されていました。その後、田中町から奉納され、現在では田中町から出ない場合毎年12月1日希望者の中から抽選を行い、翌年の奉納を決めています。

 

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奴 やっこ

花奴は、宝暦2年(一七五二)に松江村の虎右衛門によって創設されたと伝えられています。先頭の二人が持っているのは、城主の衣装を入れる挾箱です。次は雨が降ったときに城主に差し掛ける立傘です。最後は城主の「かぶり傘」を乗せる丸い台傘で、黒い布に覆われています。

 

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