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教育医療

Health and Death Education, Mar. 2001 vol.27 No.3

 

100年前と100年後の今

 

1999年の12月31日、ボストンでの会議を終えて、夕刻遅くパラアルトのホテルに向かいました。2000年の元旦は、カリフォルニア州に医師として長く住んでいる三男家族の家で、ともに祝うことにしていたためでした。ホテルのテレビからは、ニューヨーク市のユニオンスクエアで催されている大晦日のにぎやかな行事が映し出されていました。一方、この大晦日から元旦にかけては、世界中のコンピュータ関係者が2000年問題と向き合い、戦々恐々とした中で元旦を迎えた年でした。

この2000年の元旦が新世紀の幕開けのような錯覚を感じさせましたが、21世紀の始まりは2001年、つまり今年の元旦でした。そしてその100年前、つまり20世紀の始まりに、世界の識者が100年後の社会を予測し、新聞その他に発表しました。しかし、これが当たっているものよりも外れているもののほうが多く、1世紀先の将来を予測することがいかに難しいかが思い知らされました。

1900年は、私が理事長を努める聖路加国際病院にとっては記念の年でした。米国バージニア州で教育をうけたR.B.トイスラー医師が、23歳で米国のキリスト教の新教の一派である聖公会から、ミッショアナリーとして日本に派遣された年なのです。1902年には、東京築地に今の聖路加国際病院の前身にあたる小さな聖ルカ病院を創立しましたが、まだ若いトイスラー医師は、当時の東京帝国大学医学部にいたドイツ人スクリッパー外科教授を顧問にお願いして、手術を始めたと記録にあります。

ところで、1900年(明治33年)というと、あの夏目漱石が33歳にして英国ロンドンに留学した年です。英語のヒアリングは苦手としていたかもしれない日本人英文学者は、英国人学者と語り合って英文学を学ぶことに行き詰まり、うつ状態となって2年あまりで帰国したといいます。たまたま私の父は、同じ1900年に、漱石より10歳若い23歳で、米国南部の北カロライナ州のミッション系大学(今のデューク大学)に4年間留学しました。漱石のように大都会での下宿ではなく、夏休みは農村で友人と共に農業に従事し、人なつこい南部の農民と一体となって生活を楽しんでいたといいます。

当時、米国文明はそれほど秀でているとはいえませんでしたが、1903年には、ライト兄弟が初めて飛行に成功しており、1912年にはあのタイタニックの悲劇が起こっています。

100年前に父の学んだ大学は、大きな森の中にあり、広大なキャンパスの中でのびのびとした学生生活を送ったようです。この4年間の米国留学を通して、父は大きなビジョンを描くことを学んだといいます。

父は帰国後、大阪の教会牧師を務め、その7年間後の1911年からは再び渡米し、ニューヨークのユニオン神学校で2年間の神学教育を受けました。1911年、父の留学中に、山口市にある母の実家で私は産声をあげました。帰国後、父は神戸で牧師を14年間務め、1931年からは広島市のミッションスクール・広島女学院院長となり、生涯を伝道にささげました。

私は、父の生き方から多くのものを受け取りましたが、一番の贈り物は苦しい戦時中に授けてくれた“3つのV”です。それは父が青年時代に米国で育んだ大きなパイオニア精神でした。

ビジョン 大きな夢を描く

ベンチャー 勇気をもって行動する

ビクトリー その結果大きな夢が必ず具現される

(たとえ一代で達成できなくとも後継に引き継がれる)

私はこの3つのVを抱いて、ここまで歩み続けることができました。いつもこれから先の100年の夢を描いて。

LPC理事長 日野原重明

 

 

 

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