日本財団 図書館


情報開示の要求は、一人ひとりが自分のあるいは家族の人生観・死生観をどう持つか、という問題までも含んでいるのです。

 

ケースによって考えてみる

一口に情報開示といっても、倫理面また心理的影響もふまえて、細部にわたって検討する必要があります。

AID(非配偶者間人工受精)について考えてみても、それによって生まれた子が、自分の親が誰なのか、情報開示を求めたらどうなるかといった問題もあります。

前述の厚生省の資料には、「治療効果に悪影響がある場合には、診療情報の提供を留保することはやむを得ない」とあり、また日本医師会の診療情報提供に関するガイドライン検討委員会中間報告には、診療記録等の開示を拒みうる場合として「1]診療情報の開示が第三者の利益を害する恐れがあるとき、2]診療情報の開示が患者本人の心身の状況を著しく損なう恐れがあるとき」とあり、自分がどんな病気か知りたい場合でも、医者がこのように判断したら知らせてもらえない場合も起きてくるわけです。

つぎに“がん告知”について考えてみます。ところでこの“告知”という言葉は医者が上から下に向かって伝えるという非常に権威的な感じなので、なるべく使わないようにしようという意見が最近強くて、“がんという病名の開示”というようになってきていると思います。ただ告知という場合には、非常に象徴的な意味合いがあるので、象徴的な意味として理解されるといいと思います。そのがんの告知は医療倫理的な面からどのように整理できるのかを考えてみましょう。

がんの告知に関する調査結果の資料によると、自分ががんの末期である場合には、「はっきりと告げてもらいたい」と答える方がほとんどなのですが、一方家族の場合にはどうかという質問には、「はっきり告げる」という答えが激減します。これはなぜなのでしょうか。

どんな場合に「言う」ほうがいいのか、どんな場合には「言わない」ほうがいいのか、そしてその理由は何かについて考えてみましょう。ここで参加者からの意見がいろいろ出ました。

「家族に言うからいいんだ、家族なら患者本人のことを知っているからといっても、最近は昔のような形で、家族が患者さんの代理として期待できないという時代に入っている」「真実を告げた時に、自分が患者(家族)を支えられるかどうか自信がない」など、患者を抱える家族の問題は深刻で、核家族化の進む日本においては、社会的なバックアップ体制を整えることも情報開示を進める上で考えていかなければならない重要な課題だと感じます。

ただ、大前提として「自分のことは自分が知っていていいだろう」ということと、「自分のことは自分で決める(自分でしか決められない)」という二つの理由から、がんという病名を本人に言わなければいけないと思います。

しかし伝えなくていい場合というのもあります。すなわち1]患者本人の判断能力が落ちている場合(たとえばアルツハイマー病など)、2]患者本人があらかじめ言ってほしくないと意思表示をしている場合、3]情報開示が患者本人の心身の状況を著しく損なう恐れがあるとき、などでしょう。

上記2]にしても、本人が十年前に「がんになっても知りたくない」と言った場合をどう考えるかといった問題もあります。そうなると最近いわれているリビングウィルとかアドバンスディレクティブ(共に終末期の医療処置に関する患者本人の前もっての意思表示)といったものが必要かもしれません。

日本の医療における情報開示の問題は、次の3つにまとめることができるでしょう。

1] 移行期にある(どの方向に向かっているかわからない)。

2] 方向は私達が決める。

3] 本来の目的すなわち最初にあげた、患者と医師の信頼関係の強化、情報の共有化によって医療の質を高める、個人情報の自己コントロールを基本におく。

日本はいまや自分の治療法を自分で選べる時代になってきているのです。このことは逆に自分はどう生きるか、どう生きたいかが問われることにもなるのではないでしようか。

まとめ 鈴木千介

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION