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そういうふうに考えているうちに、どうすればいいかはまず祖母に聞けばいいと思うに至りました。祖母は体が衰弱して気力が衰えてはいますが、味覚や意志ははっきりしています。おしきせの介護をするのではなく、20代なら20代の、30代なら30代のひとりの人間として正面から接していこうと考えたのです。

もちろん、どうしてほしいという明確な答えが返ってこない時もあります。それでも私はきちんと尋ねます。そうすると、この人はきちんと尋ねてくる人だと認識してくれます。

 

介護における3つの柱

そういう暮らしを続ける中で、介護について私なりに考えたことがあります。まず介護は特別なことではないということです。特別なことではないけれど大きな柱が3つあると思います。

その1つが相手をよく観察することです。それは、現状を先入観のない目で見るということです。例えば、よく祖母は100歳だというと、大抵の人は100歳ならこうだろう、ああだろうという先入観で祖母の行為を限定してしまいます。けれども高齢者といってもいろいろな人がいますし、同じ人でも昨日と今日とではできることが違うのです。また今日できなかったことでも、翌日、または1週間先にはできることもあるのです。よく子供とお年寄りは同じだといいますが、私はそうは思いません。子供は、日常の能力をだんだんと獲得していく過程ですから、その時できないことは本当にできません。けれども高齢者にとっては今までしてきたことです。その時できなかったからといって、もうこれはできなくなったのだと決めてしまわないことです。

私は祖母の様子をよく観察します。そうすると、今日はこれができるのではないか、あれができるのではないかということが何となく分かります。今までできなかったことができると、本当にうれしくなります。

しっかりと観察した上で、年をとっているという過酷な状況を家族も受け入れなくてはいけません。そして本当に辛いのは、介護をされている側なのだということに気づいてほしいと思います。

2つめは、日常的な事柄において人格や意志の尊重をすることです。高齢者は行動や食事といった面で、身体的な制限がありますが、心の自由は持つことができます。この自由な心を尊重し、感情を強要をするようなことはいってはいけないと思います。例えば食事介助の時でも「おいしいでしょう」とは私はいいません。テレビを見るにしても「何を見ますか」と聞きます。おいしいかどうかは本人が感じることですし、ニュースは見ないだろうとか、新聞は読まないだろうとか、これは介護者の先入観です。

私は一緒にテレビを見ながら、だいたいのことを説明します。祖母にはテレビという窓から、社会の端を知ってほしいと思っています。そういうふうに考えて接していると、よく世間でいわれるような赤ちゃんことばで話しかけるというようなことはでてきません。

祖母は高齢ですから、説明しながらでは行動が対応できません。まず祖母の前に回って、説明し納得してもらってから行動に移ります。そういうことを日常的な車椅子の移動や食事、注射にいたるまで、心地よくない行為もありますが、そのことが必要であることを納得して協力してもらいます。そうすることで本人の意志や努力も引き出せます。祖母が寝ている時でも、体調が悪くて理解力が衰えている時でもそうします。そうすることで、何だかよくわからないけれど、この人はちゃんと説明してくれる人だという人間関係ができて、具合が悪いときや混乱している時には「あなたにおまかせするわ」といわれるようになりました。

3つめには、必ず言葉や態度であらわすということです。私は、ことばとは、言霊という言葉があるように、魂に語りかける1つの手段だと思うのです。ですから具合が悪くて熱があるときや食事がとれない時でも、表面に出ている具合の悪い祖母というのではなくて、その奥にあるスピリチュアルなものに訴えかけたいという気持ちで話しかけます。病気はお医者様なり体が治してくれますが、元気になるかならないかは祖母の努力が必要です。ですから、祖母の深いところに届くように声に出していいます。よく「言わなくても分かる」といいますが、やはり思いというのは声に出さなくては伝わらないと思います。

私は考えていることをいろいろ祖母に伝えます。「今、私が世話をしているからといって引け目に感じないでほしい。今は年をとってしまったから自分で出来ないだけです。

 

 

 

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