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天からの贈り物

―第83回―

野村祐之

 

恐るべし孫パワー

年末に骨折の手術をした父は、感染さえ起こさなければ回復の一途、1〜2週間後にはリハビリ開始の予定です。

病気ではなく怪我ですから食事は普通食です。手術後、食欲ががくんと落ち、三分の一ほど食べるのがやっと。お粥と刻み食に切り替えてくれましたが、なかなか喉を通りません。

「お父さんの好物はありませんか。おうちからどんどん持ってきてもらってかまいませんから」というお医者さんの言葉に、わが家の食事を少しずつ密閉パックに詰めて持っていってみました。

娘の祐香に離乳食を与えていたころを思い出しながら、だましだまし口に運びます。でも育ち盛りの赤ん坊のようなわけにはいきません。

それに父の大好物といってもなかなか思い浮かばないのです。光学機械のエンジニアだった父が好きだったのは、食べることより機械いじり。設計に熱中し、食事の時間を惜しがって、もうもうとタバコの煙がたちこめる中でドラフティング・ボードに向かう父の後ろ姿をよく覚えています。

好物のひとつやふたつないというのもこういうときには困りものだと知らされました。とはいうものの、朝食時に先生が「一口でも」とすすめると、

「ここのパンはまずくて食えない。中村屋のパンじゃないとだめだ」といって手をつけなかったというのですから、顔から火の出るおもいです。ふだんそれほど中村屋のパンにこだわっていたとも思えないのですが。

そんなおり、ひとつだけペロリと平らげて僕を驚かせたものがあります。5歳になる孫の祐香が、「おじいちゃんに」と自分のお小遣いで買ったカスタードプリンです。孫パワー、恐るべしです。

でもこれが自発的に食べた唯一、そして最後の食べものとなってしまいました。このままでは体力が持たないという判断で栄養の補給は点滴で行うことになりました。また血液中の炭酸ガス濃度が高く、肺の機能が落ちていることがわかったため、鼻に酸素補給のノズルをつけることになりました。

それまで食事の時にはベッドを45度くらいに起こしていたのですが、点滴となると一日中寝たままです。しかも脚の手術の後ですから寝返りもままならず、仰向けのままです。

見舞いに行くと、まず、背中から肩にかけてゆっくりとさするのが日課になりました。じつはこれ、祐香を寝かしつけるときのワザです。それをいうと顔をゆるめ、素直に喜んでくれるのでした。またもや孫パワー恐るべし!

このころから痰がたまってもなかなか自分でゴホッと出すことができず、吸引してもらうようになりました。これを苦しがり、ずいぶん看護婦さんをてこずらせたようです。

目の前でこの様子を見ると無理もないことです。ビニール管を喉の奥に突っ込まれ、掃除機をかけるようにかき回しながらの吸引ですから、普通の人なら平気でいられるはずがありません。でも抵抗が続けばのどに穴開け、管を通して吸引するしかないと聞かされ、本人も理解しているようでした。

「分かるんだけど、突っ込まれると、苦しいもんだから、手が動いちゃうんだ。仕方がないんだ」と、うっすら涙をためて訴えます。

僕がいる限りは、吸引時、父の両手をしっかりと押さえるようにしました。たしかに苦しそうですし、かなりの抵抗です。でも力ずくで押さえ込むしかありません。心を鬼にするっていうのはこういうことか、と思いながらの格闘です。

ところがそのうち、吸引となると父のほうから僕の手を求め、満身の力を込めてしっかり握るようになりました。

でも、それとてたまたま僕が居合わせるときだけのことです。

点滴の管も外してしまうらしく、何回も説明し、そのときにはわかったというのですが、なかなか続きません。たしかに父にすれば、求めているのは納得のいく説明ではなく不快感の除去なのですが…。

先生の方から、安全確保のため両手を縛る許可を求められました。状況からしてほかに方法はなさそうです。

その日以来、せっつかれるように病院へ向かい、最初にすることは布団をはぎ、縛られている手を外してやることでした。手が自由になるやいなや、顔をぬぐったり鼻を掻いたり胸をさすったりすることがしばしばでした。やむをえないのですが、かける言葉が見つからないつらい光景です。

 

 

 

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