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2. 台場(だいば)の歴史−台場の建設から消滅まで

台場とは江戸時代に築造された砲台のことで、とくに、幕府築造の東京湾品川沖の砲台を御台場といいます。現在では臨海副都心に保存されているお台場のイメージが強いのですが、三浦半島や猿島などにも数多く造られていました。嘉永(かえい)6年(1853)8月から翌安政(あんせい)元年(1854)5月までに、江戸品川浦沖に6基の砲台が構築(こうちく)されましたが、この台場は嘉永6年6月、アメリカ第13代大統領フィルモアの親書を持って、東インド艦隊司令長官ペリー提督率いる4隻の黒船が突如浦賀に来航したのを機に、江戸幕府がにわかに海防策(かいぼうさく)の一環として品川浦沖に11基の台場を建築するという案を採択して構築された物です。これは伊豆韮山代官(いずにらやまだいかん)江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)らの献策(けんさく)によったものですが、幕閣内部に激しい反論があったにもかかわらず、幕府は緊急非常事態(再来日)に備えて、あえて決行しました。総工費約七十五万両(幕末期の米価から計算した金一両の価値は3〜4千円なので、これで計算すると約22.5億〜30億円)をかけて翌年5月までに第一、二、三、五、六番台場を完成させたましが、第四台場は構築半ばにして資金難のため中止されました。埋め立て用の土砂は泉岳寺(せんがくじ)の山、松平駿河守(まつだいらするがのかみ)の下屋敷の山、品川御殿山(ごてんやま)等を切り崩して海に運び、土方人足(どかたにんそく)だけでも二百七十万人が動員されました。また石垣用として伊豆・真鶴(まなづる)・三浦(みうら)の石を採石し、輸送船は伊豆・房総(ぼうそう)半島諸港の地船が徴用(ちょうよう)され、昼間の東海道(とうかいどう)の高輪(たかなわ)通りは通行止めとして脇道を通らせたりと、周辺地区の道路は大混乱となりました。工事は難渋(なんじゅう)し「死んでしまうか、お台場に行こうか、死ぬにゃ増しだよ、お台場の土かつぎ」とうたわれた程でしたが賃金は悪くはなく、「お台場で土かつぐ、さきで飯食うて、二百と四文、ありがたい、ありがたい」という俚謡(さとうた)もあります。とにかく海岸の町々は大騒ぎだったようです。現在は東京港改修工事のため第三台場と第六台場を残し撤去され、品川台場の全貌(ぜんぼう)を見ることはできません。第一台場と第五台場は品川埠頭に飲み込まれ、第二台場は航路拡張のため撤去されました。これらに使用されていた石は、晴海埠頭公園などに今も見ることができます。また第四台場の石垣の一部は天王洲(てんのうず)周辺のボードデッキに姿を残しています。

 

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海上保安庁発海図第1065号

 

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