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もし、普通の学問であったなら、学説の一つとして扱われ、「そういう学説もかつてあった」として片付けられてしまったかもしれない。ところで、その体感ですが、梅岩先生にとってどの時期にあって、それが教えにどうつながったのかぜひ知りたい。黒川さんは専門家ですから研究してください。

黒川 それは大きな課題ですね。

谷口 聞くところによりますと、小さい頃の梅岩先生は頑固で、理屈屋で、ちょっと変わり者と言われるところもあったとも聞きますね。人の言うことも聞かなかったと。しかし、そのぐらいの根性がないと、最初から何でも“そうか、そうか”と言っていたら、独学であれだけの勉強をし、あれだけの信念は持てなかったと思います。少年期から青年期にかけてどんな苦労をされ、何を体感なさったのか知りたいですね。

黒川 会長さんのおっしゃる、梅岩先生の芯の太さといいますか、真摯な情熱は本当にすごいと思います。頑固なところも自覚なさって反省し、改めようと努力され直されたようですね。そして、四十歳以上になるまで、一つの信念でひたすら独学を続けられる。小栗了雲という師に出会いますが、その師が亡くなる直前に、梅岩に対して「自分が註の書き込みをした書物を全部お前にゆずろう」と言うのですが、梅岩先生はその時、「先生の教えは教えですが、私は私の考えで新しい道を説きます」と言って、師のその申し出をキッパリと断られる。このへんの芯の太さというか、すごい情熱は、一本筋が通っていて、変に自分をごまかして、師の遺産を引き継ぐということはされない。これは、普通の人にはちょっとまねのできないことだと思います。

 

“お女中方はどうぞ奥へ”

 

―大庭さんと木戸さんは、ご自身商売をなさっていてどうお考えですか。

大庭 “商い”は、梅岩先生の時代にはあまり良く思われていなかったようで、梅岩先生は、正道の商法を説いて、悪徳商人をいましめられました。また当時は、一般の人が学問をすることはなく、ごく限られた人のみが知恵をつけて国を動かしていた受動的な時代でした。そういった社会にあって、梅岩先生は、“お女中方はどうぞ奥へ”と男女の区別なく心学講席を開講されました。当時の出版物の講座風景の挿絵を見ますと、男女の双方の席の間に簾があって、顔は直接見えないように工夫してあります。こういった方法は、“男女席を同じくせず”と言っていた当時の徳川幕府の封建体制下の御用学に対してのやわらかな批判活動でもありました。これを見た時私は、何とも言えない感動を覚えました。これは、今日の日本人に欠落している“努力・知恵のあり方”を問うていると思いました。

また梅岩先生の学問は、書を読み、知識を集積する事だけでなく、本質的な理解を促すところにありました。門は万人に開かれていて、たとえ字が読めなくても、道を求め、心を知ることにより、知性・教養を身につける事は可能と考え、人生と社会を深く思惟することの重要性を訴えつづけられました。そして、自分の仕事に誇りを持ち、精励すれば、神仏とも一体化し、望ましい運命が訪れると、「正しく生きる美徳」を説かれました。

 

 

 

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