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佐久島出身で半田の船頭小栗重吉は、文化10年(1813)に督乗丸で遭難した。北アメリカ大陸の南西海上でイギリス船に救助されるまで、漂流は16ヵ月に及んでいる。彼の帰国は、実に17年後のことである。その体験は、池田寛親による聞き取り書『船長日記』に詳しい。また彼は、簡便な露日辞書とも言うべき『ヲロシアの言』を記している。とにもかくにも帰国出来た彼らに対して、ついに異国で生涯を終えたのが小野浦(知多郡美浜町)の船乗り音吉である。彼は、天保3年(1832)に宝順丸の遭難によって漂流すること14ヵ月、同僚2名とともに北アメリカ大陸に漂着した。数奇な運命に操られながら、後にドイツ人の宣教師ギュツラフによる最初の『聖書』邦訳に協力したが、浦賀・鹿児島まで入港しながら、故郷の土を踏むことができなかった。帰国を願って彼が乗船していたのが、幕末外交史にその名をのこすモリソン号である。これらはいずれも、ほかならぬ伊勢湾の歴史のひとこまであり、後の時代の、この地の文化のありかたに影響を与える重大事であった。

もう一つの事例に触れよう。今年は、「武豊港開港100年」にあたるが、関係者の皆さんはご承知のとおり、これは同港が関税所の開設を伴う外国との貿易を公認された開港場となってから100年という意味で、船着き・荷役場としての港はもっと早くから存在していた。そもそも明治19年(1886)の武豊−熱田間33.6キロメートルの武豊線が開通したのは、東海道線建設のための資材を武豊港から荷揚げして運ぶためであった。それはともかくとして、この路線の開通に関する地元の陳情を見ると、誠に興味深いものがある。

文明開化とともに、幹線鉄道の敷設事業の必要性が強調され、それに向けての取り組みの一環として鉄道敷設事業に立候補しようとするのであるから、それと不可分のものとして港湾整備を陳情したのはもっともなことであるが、あわせて、知多半島を横断する運河の掘削を計画しているのである。衣ヶ浦沿岸からの物資輸送を鉄道のみによってではなく、船運によって考えようとしたところに、この時代・この地域の特性が現れていて大変興味深いものがある。

なお、武豊港の開港は明治32年(1899)で、布土地先から真東に引いたラインの内側がその範囲であるから、現衣浦港は当初から一体のものとしてスタートしていたのであり、東海道線敷設のための資材の陸揚げ場所であった狭義の武豊港に限定されたものではなかった。

 

海と人との多様なかかわり

地域に住む人達の、生産や生活の場としての海について述べる余裕がほとんど無いのが残念であるが、船乗りたちの知恵とともに、捕鯨から藻塩刈に至るまでの漁民の暮らしもまた、多様な工夫を生み出した。環境間題がことのほか重要となり、リサイクルの視点が喧伝される今日、大量生産=大量消費の「重厚長大」社会以前の人々の生産・生活にかかわる知恵は見直されてよい。迷信・俗信に惑わされる必要はさらさら無いが、海を巡るさまざまな信仰の世界は、地域の結び付きの再生にとって参考になるかもしれない。たとえば、鳥羽市の「海の博物館」に保存・展示されている民俗・民具資料が、ニュー・ビジネスのヒントを与える可能性だってある。

医者が蒸留水を作るのに用いた「ランビキ」原理を利用し、船乗りたちは桶や鍋など有り合わせの道具を利用して海水から大量の真水を得たという。海苔養殖に用いる海中の高下駄の工夫にも感心させられる。水中をのぞくための箱も、恐らく原理よりは経験が生み出した発明であろう。歴史の中には、一杯知恵が詰まっている。リサイクルなんて掛け声をかけなくても、みんながそのように暮らしていた時代があった。

海水浴や潮千狩りはひとつの行楽であるから、その舞台である千潟や砂浜は、レクリエーションと触れ合いの場でもあったわけだが、同時にそれは、海を浄化する場=装置でもあった。伊勢湾においても、時代をさかのぼればそのような場は、もっと広かったはずである。

 

 

 

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