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絵で見る目本船史 <262>

白山丸(はくさんまる)

 

昭和十四年十二月二十九日政府の指導で国策海運会社日本海汽船が設立され、当時最重要視された日満連絡最短距離の裏日本と北鮮を結ぶ航路運営の為、北日本汽船、大連汽船、朝鮮郵船の三社合弁(ゴウベン)により創立され、北日本汽船の野村治一良社長が新会社の社長を兼務し、翌十五年二月十一日に当時の紀元節を期して営業を開始した。

 

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当初は各船社の出資船十一隻で開業し、北日本汽船からの六隻は従来の裏日本・北鮮間の定期航路就航船を航権と共に継承、月山(ガッサン)丸と満州丸は新潟を起点に、気比(ケヒ)丸、さいべりあ丸、はるびん丸は敦賀から、北鮮丸は伏木起しの定期船として就航、大連汽船の河北丸、河南丸及び朝鮮郵船の金剛山丸の貨客船三隻は、定期予備船として各航路に配置され、大連汽船からの貨物船二隻、泰安(タイアン)丸と煙台(エンダイ)丸は不定期船として運航された。

新会社発足当時浦賀船渠で建造中の貨客船二隻、射水(イミズ)丸と白山(ハクサン)丸は先年北日本汽船が発注し十五年一月三十日新会社に移籍され、夫夫(ソレゾレ)同年四月と翌十六年八月に完成し日本海汽船の船列に参加した。

北日本汽船出資の最終船白山丸は、新鋭貨客船月山丸型の三番船で主要寸法は月山丸、気比丸と同じでも設計の工夫により旅客定員は大幅な増加を記録し、船体重量は逆(ギャク)に軽減され、月山丸に搭載の砂利バラスト約五百屯は不用となり、上部構造物の流線形化等画期的な改善が功を奏したのである。

主機は月山丸同様低圧タービン付複二連成レシプロ一軸装備ながら、試運転の最高速力は月山丸より〇・三節増の好成果をあげた。

客室設備も大幅に改良され端艇甲板最前部、船橋の直下に見晴らし最高の一等社交室があり、両舷のベランダは同甲板後部の、二等喫煙室と共に頗(スコブ)る好評であったと伝えられ、第二甲板前部には一等食堂、続いて一等客室二名用六室三名用二室、左舷中央に定員二名の貴賓用特別室が用意され、中央後部は二等客室で和室設備あり、その下部上甲板の前方三番艙両舷にも二等客室あり、左舷中央部に二等食堂、後方船尾まで三等客室と食堂が配備され、船客定員一等二〇名、二等一〇〇、三等六八七合計八〇七名で、月山丸の七五八名に比べ四十九名の増加となった。

白山丸の命名は日本三霊山の一つで石川、福井、岐阜の三県に跨(マタ)がり、万年雪を頂くので白山と呼ばれその山頂に祀(マツ)られている白山比?(ヒメ)神社に由来する船名という。

昭和十六年八月二十日竣工後直ちに新潟・清津・羅津間の定期船として就航、同年十一月一日不慮の遭難で沈没した気比丸の代船として敦賀に移り、太平洋戦争開戦後も日満連絡の重要使命に専念し翌十七年四月一日戦時海運管理令により創設された船舶運営会に移管し、引続いて北鮮航路の主役として活躍、その後は朝鮮各地から内地向けの大豆輸送に従事した。

昭和十九年秋にはサイパン島の米空軍基地から日本本土への爆撃が開始され、翌二十年の一月以降各都市は無差別焦土作戦で灰燼と化し、更に米海軍機動部隊の沖縄進攻後は内地周辺にも機動部隊の仮借なき空襲を受け、各港湾水路も磁気機雷で完全に封鎖された。

同二十年七月初め山口県萩沖で米機動部隊の艦載機に捕捉され、被爆沈没となったが戦後引き揚げ修理の上船列に復帰し、二十二年十月一日新潟・小樽間の定期航路の開設第一船として就航した。

同二十五年四月一日民営還元となり、二十八年北京政府の許可で満州残留邦人引揚げの第一次から就航、三十一年には沖縄定期航路の主力となり活躍したが三十六年船齢二十歳の時、東洋郵船に売船となり、インドネシア方面に就航したが四年後の昭和四十年、広島県の松永湾で解体され、二十四歳の波瀾に満ちた生涯を閉じた。

松井邦夫(関東マリンサービス(株) 相談役)

 

 

 

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