「耐火建築促進法」に基づく防火建築帯造成事業は、1952年の鳥取大火の復興に初めて適用され、3,327mの防火建築帯が造成された。1955年の新潟大火の復興では、共同建築による防火建築帯が実現した。防火建築帯造成事業は各地の大火復興で用いられ、1953年の大火の復興にあたって893mの防火建築帯を造成した大館市では、1956年の大火でその効果を発揮した。
「耐火建築促進法」は、1961年の「防災建築街区造成法」に引き継がれ、約109haの改造が行なわれた。方、大火復興での土地区画整理事業は焼失区域とその周辺に限定されたため、街路等の都市基盤は体系的に整備されず、2度にわたって大火に見舞われた秋田県能代市では、都市計画街路が完成するまでに、約30年を要した。
[酒田の大火復興] 1960年代後半に入ると市街地大火は激減したが、1976年10月末、山形県酒田市で大火が発生し、中心商業地を含む22.5ha、1,744棟が焼失した。
午後5時半過ぎの出火は、折からの日本海からの強風にあおられ、午後7時のNHKニュースで実況中継された。これを見た建設省の土地区画整理担当者は夜行列車で現地に入り、3日後には土地区画整理事業による復興の方針を打ち出した。同時に建築基準法84条による建築制限を行ない、2ヵ月後には、施行区域面積31.9ha、減少率12.36%の土地区画整理事業の都市計画決定にまで持ち込んだ。
土地区画整理事業による基盤整備では、防火樹を街路樹とした2本のショッピングモールと焼失区域を南北に分断する幅員32mの街路が造成されるとともに、立体式の公園を含む3ヵ所の公園と1つの緑地、土地の嵩上げと防火水槽の設置等が行なわれた(図1)。
出所:酒田市建設部『酒田大火記録と復興のあゆみ…』
(酒田市建設部、1977)35頁
商業地区の上物整備は、主として3つの街区に分れた市街地再開発事業と商業近代化事業に基づく共同店舗によって実施された。また、火炎を拡大したといわれたアーケードは撤廃され、各店舗のセットバックによるモールが形成された。
2. 水害からの復興と再建
[大阪市での高潮災害復興] 1934年9月の室戸台風による高潮では、大阪市の1/5にあたる約4,930haが浸水し、外部防波堤や波除堤の築造、貯木場の移転・新設等の復興事業が行なわれた。1947年の大阪港復興計画では、港内を浚渫して港湾機能を高めると同時にその土砂で港湾地帯の嵩上げが行なわれた。また、住宅地区改良事業が合併施行され、約2,600戸の住宅も建設された。さらに、1950年9月のジェーン台風では嵩上げが行なわれていなかった5、625haが浸水し、土地区画整理事業を併用して、2mの嵩上げが行なわれ、ジェーン台風より高い4.12mの潮位を記録した1961年9月の第二室戸台風での浸水面積は3,101haに押さえ込まれた(図2)。
[名古屋市での高潮災害復興] 大阪湾での高潮対策が効果を上げつつあった1959年9月、伊勢湾台風が伊勢湾岸諸都市を襲い、大規模な高潮災害が発生した。伊勢湾では、江戸時代から干拓が行なわれ、さらに、干拓地の海側に埋立地が造成されていたため、最高潮位5.31mの高潮は、4,645名の死者と194,041戸の床上浸水家屋をもたらし、湛水日数が数10日という地域もあった。