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参考資料

 

復興と再建

 

1. 大火からの復興と再建

[サンフランシスコと東京の大震火災] サンフランシスコは19世紀半ばのゴールドラッシュで急速に拡大し、何回かの大火に襲われたものの直ちに再建されてきたが、1906年4月18日早朝に発生したM:8.2の大地震によって50ヵ所以上から出火し、当時の市域の3/4に当る10.5Km2が3日2晩にわたって焼き尽くされた。しかし、シカゴ大火(1871年)やボストンの大火(1872年)以降の研究成果を活用し、高圧水道システムの構築やすべての交差点下に防火水槽を設置した従前と同様の格子状道路パターンの都市を、迅速に再生した。

関東大地震は、1923年9月1日正午直前、台風並みの低気圧による瞬間最大風速21.8m/秒という気象条件下で発生した。旧東京市では、130数件の出火が2度にわたる風向の逆転によって拡大し、3日間にわたって38Km2を焼失させ、6万8千人の死者を出した。

復興にあたっては、帝都復興院が創設され、総裁:後藤新平は大規模な復興計画を提案したが、次第に縮小され、結果的には「危険都市:東京」が再生された。

しかし、特別都市計画法によって1911年の耕地整理法を準用した土地区画整理事業が約30km2にわたって実施され、小学校の耐震・耐火化や小公園との隣接配置によって地域の拠点が創出された。住宅の供給は、1924年9月に、義援金を基に設立された同潤会によって、合計約12,000戸の集合住宅や共同住宅等が建設され、住宅の近代化の先鞭となった。

 

[函館の大火復興] 関東大震災以降、欧米諸都市や我が国の大都市での大火は激減したが、地方都市では頻発した。

北海道函館市は、その立地条件から強風が多く、1854年の開港以降、20世紀初頭まで10数回の大火に見舞われ、道路拡幅や沿道不燃化の努力がなされてきた。しかし、風速25m/秒という烈風下で発生した1934年3月の大火は、焼失面積:400ha、焼失家屋2万戸、死者:2,000名を上回る被害をもたらした。

復興にあたって、建築学会等の提言を踏まえ、北海道庁と内務省は大火16日後に「復興計画案大綱」を策定した。その結果、緑樹帯による防火ブロックの形成、交差点付近への公園や耐火造小学校の配置、沿道の防火地区指定と「防火地区内建築資金取扱方針」による不燃化促進、消防水利の強化、避難広場となる公園の整備等体系的な防災都市づくりが展開され、函館の大火は絶滅された。

 

[戦後の大火復興] 空襲で焦土と化した市街地に「特別都市計画法(1946年制定)」による戦災復興土地区画整理事業が推進される中、1960年代に入るまで、地方都市では大火が頻発し、その都度、復興されていった。

1947年4月の長野県飯田市の大火では、耕地整理を準用した約60haの土地区画整理事業が断行された。用水路と広幅員街路を組み合わせた防火帯が形成され、中央部の緑地帯にはリンゴ並木が造られ、大火を後世に伝えるシンボルとなった。

大規模な戦災復興を計画していた福井市では、1948年6月の直下型地震によって約4万戸が全壊焼した。その結果、都市基盤整備の遅れが被害拡大に寄与したことを考慮し、約560haに及ぶ土地区画整理を大幅に見直した上で、戦災復興事業として復興した。

1940年代後半に頻発した市街地大火を背景として、1950年には「建築基準法」が制定され、続いて「耐火建築促進法」が1952年に成立した。

 

 

 

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