8人兄弟の末娘として生まれ、小さい時から山が好きで、山歩きかたがたワラビ、フキ、キノコを採ることを楽しみにしていました。
私は18歳で高校を出て、大阪の洋裁学校を卒業し、自分で洋裁学校を作ろうと思い立ち、一生懸命に頑張ってまいりました。
24歳で、深浦町に洋裁学校を公認校として設立し、生徒と共に張り合いのある毎日を送っておりましたが、その後城下町・弘前へ出てきたのです。この流行に敏感な地方都市で、若さにまかせ、さらに若い女性たちに囲まれて頑張りました。本当に楽しい思い出ばかりで、今でもミシンを踏むことに生きる喜びを感じます。
昭和35・6年頃だったでしょうか。児童相談所の方がわざわざ私の家を訪れ「里親になってみませんか」と、私に勧めてくれたのです。「忙しくて自分の子供の面倒さえも十分にみられないのに、困ったなあ」と私が言うと、家のおばあちゃんが「子供は何人いても邪魔にはならないから、やってみなさいよ。人に尽くすのも、自分の子供のためにもなるよ」と言ってくれました。
私には大変優しかったこの主人のお母さんは、民生委員として一生懸命頑張ってきた人です。