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◎中部高原への取材◎

中部高原への出発のまえ、ハノイの友人たちにそのことをつげると、「中部高原は面白いところと聞いているが、気候が変わるから気をつけろ」とまるで異国に旅立つように忠告してくれた。ベトナム語では中部高原はタングエンとよばれ、その言葉には異境の地といった響きが込められている。

中部高原とは、中部最大の都市ダナン(現在は特別市)のあるクアンナム省の西部、ラオスとの国境沿いに始まり、南ヘコントム省、ザライ省、ダックラク省、ロンドム省にまたがる標高千メートル前後の高原地帯をいう。

ベトナムは、政府が公認した民族単位で、五四にのぼる多民族国家だが、人口の九〇パーセントはヴェト(越)人が占めている。彼らは自らをキン(京)人と自称し、元来、水田稲作に長けた人々で近年まで中部高原などの山地には興味をほとんど示さなかった。一〇世紀中国からの支配を脱したキン人たちが、中部のチャンパ国(マレー語系)の領土を蚕食しながら南下した際もひたすら海岸沿いの平地に展開していったため、中部高原はもっぱら、モンクメール語系やマレー語系の先住民の天地として保たれてきた。余談だが、中部高原の代表的二つの都市、プレイクーとボンメトートの名の由来は、プレイはザライ語で村、クーとは馬のシッポで、ボンはモノン語で村(土地)、メトートはトート翁という人名で、トート翁の村ということになる。このように中部高原の地名はほとんどが先住民たちに縁をもっている。先住民の世界に異変が起きたのは、フランスの植民地支配がこの地に及んでからである。現在では多くのキン人がデルタから入植してきているが、数十年前のハノイの人たちにとってはタングエンは異境の地だったのである。

ハノイを飛び立ったプロペラ機はザライ省の省都プレイクーに着陸した。

飛行機を降りてそこで見た光景は、私をベトナム戦争という現実に引き戻してしまった。この旅の前に一巡した越中国境では、今後の取材の手応えを得ていただけに、半壊したレーダーサイトや格納庫が残骸をさらす光景は、場違いなところに来てしまったと思わせるに十分だった。しかも、市内へ向かう道路沿いには薬莢(やっきょう)などの戦争廃棄物がうず高くつまれた屑鉄屋が軒を並べ、戦場そのままの殺伐とした景観である。おまけに案内された宿舎は道路に面した四隅にトーチカが銃眼を開いている。なんでも南ベトナム政府軍の将軍の使っていた邸宅だという。夜、司令官も寝たであろう巨大なダブルベッドに体を横たえた私の脳裏に、なにか勘違いしていたような後ろめたさが過(よ)ぎった。ここはあの世界史にも残る凄惨な戦争が行なわれたところである。この街も人々もあの惨禍から立直っていない。ここでの民族文化の取材など、どこかトボケた話ではないかと不安になった。

 

◎戦略村で育った人々◎

翌日、省の文化情報部のスタッフは元気に案内を開始してくれた。彼らの話では、「これまで戦争の取材はあったが、文化の取材は全くなかった。貴重な仕事だ」と、意外と感動してくれているのである。しかし、案内された村々では、錆びたトタンの家が、一本の木もない荒れた土地に連なっているのである。人々は使い古したTシャツを身にまとい、見るからに疲れ切った様子である。これでは難民キャンプではないか。いや、まさしく難民キャンプなのである。基地周辺に造られた「戦略村」(べトナム戦争中アメリカ軍が住居を解放線から隔離するために造った村)に強制的に囲いこまれた人々は、基地の陥落と同時に難民として逃れ、戦闘の終了後、再び戻ってできた集落なのである。

 

 

 

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